津田沼教会 牧師のメッセージ
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「僕として歩む主イエス」(マタイ21:1-11)内海望牧師
マタイ21:1-11、2011・04・17、枝の主日(典礼色―紫―)、ゼカリア書9:9-10、フィリピの信徒への手紙2:6-11

マタイによる福音書21:1-11
 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「シオンの娘に告げよ。
 『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
  柔和な方で、ろばに乗り、
  荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
 「ダビデの子にホサナ。
  主の名によって来られる方に、祝福があるように。
  いと高きところにホサナ。」
 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。



説教「僕として歩む主イエス」(マタイ21:1-11)内海望牧師
 今日は「枝の主日」と呼ばれる特別な主日です。エルサレムの群衆が、木の枝を切って道に敷いてイエスさまをお迎えしたという出来事にちなんでいます。この日の日課は必ずイエスさまのエルサレム入城の記事になります。また、この個所は待降節(アドベント)第一主日にも読まれます。
 今日の説教題は矛盾しています。聖書で「主」という言葉はヘンデルがメサイアで用いた「王の王、主の主」と同じ意味です。王さまの中の王さま、つまり最も権威と栄光に満ちた方に与えられる尊称です。一方「僕」という言葉は、聖書では単なる召使でなく、「奴隷」と訳すべき言葉です。この世で最も低い身分の人と見られていた人々の更に下に位置付けられていたのです。「王の王」と「僕」という呼び名が同一の人物につけられるのは矛盾です。
 しかし、これはイエスさまの生き方そのものなのです。イエスさまは神さまのひとり子ですから「王の王、主の主」と呼ばれるにふさわしい方です。堂々と威風あたりを払う姿で轡を並べて入城すべき方です。しかし、イエスさまは今、ゼカリヤによって預言されたように柔和なろばに、鞍ではなく服を敷き、荷を負う子ろばを伴ってエルサレムに入城されたのです。そこには人の目を奪う凱旋将軍の輝きはなく、町々村々を埃にまみれながら、神の国の福音を伝え、病をいやし、悪霊を追い出し、死人を蘇らせるイエスさまの姿しかありませんでした。事実、イエスさまのなさったことはそれだけでした。しかし、それで十分でした。この時の群衆の歓呼の声は本音でした。そのようなイエスさまを心から喜んでお迎えしたのです。
 ただ私たちの心には疑問が残ります。今年はマタイの福音書によってイエスさまの足跡を辿って来ましたが、ガリラヤ地方において働いておられたイエスさまが、ある時から顔をしっかりとエルサレムに向けて歩み始められたことを知っています。その姿があまりにも決然としていたので、その緊張感が弟子たちを脅かしたほどでした。マルコ福音書には、「イエスは先頭に立って進んで行かれたので、弟子たちは驚き、従う者は恐れた」と書かれています。しかも「私はエルサレムで十字架につけられる」とまでおっしゃっているのです。それに比べると、今日のエルサレム入城の光景はあまりにも牧歌的です。
 しかし、イエスさまはこの祝福された時が、まさに十字架の苦難の道へと続いていることをはっきり自覚されていました。イエスさまはここで立ち止まらず、更に十字架へと歩
を進められるのです。
 今週は受難週です。先週に続き、この週も私たちは日々イエスさまの十字架への道筋を聖書日課によって辿ることになります。その時、私たちはイエスさまが何故十字架への道を歩まれたかをはっきりと知らされるのです。
 群衆は今、イエスさまを心から祝福しお迎えしています。弟子たちも同じ気持ちであったでしょう。この方に忠実に従って行こうと改めて決心したことでしょう。ラザロの死後、ディディモと呼ばれるトマスは率先して他の弟子たちを励まし、「私たちも行って一緒に死のうではないか」と語りました。彼は本気で言ったのでしょう。あるいは、ペトロは、最後の晩餐のおり、イエスさまから「君たちはつまづく」と言われた時、「たとえ、みんながあなたにつまづいても、わたしは決してつまづきません」と断言し、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」とまで言っているのです。「弟子たちは皆、同じように言った」と聖書は記しています。しかし、私たちは、あのトマスがイエスさまの復活を信じることが出来ず、「疑い深いトマス」と言われた人物であることを知ることになります。また、ペトロ、ヤコブ、ヨハネという弟子たちの筆頭に属する弟子たちがゲッセマネの園で、眠りこけてイエスさまを孤独の底に落としたことを知っています。ペトロに至っては、イエスさまなどという人は知らないと三度まで否定するのです。また、イエスさまが捕えられた時、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」と報告されています。イスカリオテのユダのみが裏切り者ではなかったのです。
 弟子たちだけではありません。今日イエスさまを歓迎し、喜び迎えた群衆は、ピラトのイエスさまをどうしたいか」という問いに答え、「十字架につけろ」と叫び続け、ついには暴動にまで発展しそうになったと書かれています。そこで、ついにピラトはイエスさまを十字架に渡してしまうのです。ろばに乗っての入城という牧歌的な、平和な暖かい場面で始まった受難週でしたが、イエスさまはすべての人々に見捨てられ、全くの孤独のうちに十字架へ向かって歩み続けられるのです。
 人間には、数多くの素晴らしい面があります。震災の中でも、自分も苦しんでいるのに何とか他人を助けようとする人々、文字通り命をとして隣人を守った方々、「神にかたどって造られた」という言葉を思い出させます。今日のイエスさまのエルサレム入城の際の人々の姿は確かに牧歌的と言ってよい風景を私たちに見せてくれます。イエスさまも喜ばれたことでしょう。トマスも、ペトロも、他の弟子たちもみな本気でイエスさまと共にいることの喜びを表現したと信じます。
 しかし、その同じ人間の心に、ルターが「悪魔の仕業」としか思えないと語るような恐ろしい思いがうごめいているのです。ルターの、「これは悪魔の仕業だ!」この言葉は、自分の力ではどうすることも出来ない力が自分を罪の中に引きずり込むという叫びです。ルターは、まっすぐに歩もうとしても、どうしても自己中心というか自己絶対化へと曲がってしまう自分の心に出会い、絶望しました。どうしても、それを引きとめられないのです。パウロは、「行いたいと思う善は行わず、望んでいない悪を行っている」とその内奥の苦しみを告白しています。これは「移り気な心」などという表現で、簡単に語ることの出来ない心の呻きと言えます。「助け合う心」を持つ、その同じ人間の心に「悪魔の仕業」としか思えないような邪悪な思いが湧き起って来るのです。これが人間の真相なのです。
 イエスさまにとって弟子たちの裏切り、群衆の「十字架につけよ」という叫びは決して「降りかかった災難」ではありませんでした。実は、イエスさまはそのような人間の姿をご存知でした。それだからこそ、イエスさまは十字架の苦しみへ向かって敢然と歩まれたのです。
 どうしてイエスさまは十字架への道を歩まれたのでしょうか。ガリラヤの湖畔で、神の国の福音を宣べ伝え、病める者をいやし、悪霊を追い出し、死人を蘇らせ、人々に暖かい心を注ぎ込むだけで十分ではなかったでしょうか。尊敬され、愛される教師として生きるだけで十分ではなかったでしょうか。
 イエスさまの目的はただ一つ、この罪人を救うためにエルサレムへの道をまっすぐに歩み通されたのです。言い換えれば、一人の罪人も滅びないで永遠の命を得るために歩み続けられたのです。まさに、人間に仕える僕として歩むイエスさまの姿がここにあります。イエスさまにとって、十字架の苦しみと死は、イエスさまにとって「降りかかった災難」ではなく「罪人を救うために歩まねばならない道」であったのです。この愛の決意の重さが、弟子たちを恐れさせたのです。裏切り、逃げ去った弟子たち、「十字架につけよ」と叫ぶ群衆を愛し続け、自分の命を贖いとし、死と罪に打ち勝つ道はここにしかないと見定められて、今エルサレムへと入城されたのです。
 今日の第二の日課であるフィリピ2章6―11節をお開き下さい。イエスさまは全くの上から、王の王、主の主のもとから自分を無にしてこの世界に来られたのです。王の王が僕となり、私たちを救うために、私たちに仕え、命を与えて下さったのです。イエスさまの愛が、イエスさまの他は誰にも出来ない救いの業を完成させて下さったのです。
 ここにおいて、私たちは教会がずっとアドベント第一主日と、枝の主日に同じ聖書の個所を置き、典礼色も同じ紫にしていたか、その意味を知ることが出来ます。紫は「王の尊厳」を表わす色であると言われます。イエスさまはまさに「王の王、主の主」である方でした。その方が「布にくるまった飼い葉おけ」にお生まれになったのです(アドベント)。生まれたばかりの乳飲み子は全く無防備です。しかも安住する場所もなく「飼い葉おけ」でお生まれになったのです!一番弱い存在と言えましょう。そこまで下って下さったのです。これが十字架へと通じる道であったのです。「飼い葉おけ」と「十字架」は一つの道の上にあったのです。この道をイエスさまが歩み通されることによって私たちは罪赦され、生きる道を与えられたのです。このイエスさまが「私は、いつもあなたがたといる」と約束して下さったのです。紫の色は「悔い改めの色」とも言われます。受難週は悔い改めの時でもあります。「信仰無き私を救いたまえ」と告白する時、私たちは僕として下から私を支え、新しい命へと導いて下さるイエスさまの愛を知ることが出来ます。これは確かなことです。次週のイースターには悔い改め、罪赦された罪人として新しい命に復活する喜びを共に分かち合いたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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2011/04/17(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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