津田沼教会 牧師のメッセージ
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「十字架につながる奇跡」(ヨハネ11:17-53)
ヨハネ11:17-53、2011・04・10、四旬節第5主日(典礼色―紫―)、エゼキエル書33:10-16、ローマの信徒への手紙5:1-5

ヨハネによる福音書11:17-53
 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。




説教「十字架につながる奇跡」(ヨハネ11:17-53)

いよいよ、四旬節、受難節も、残すところ2週間となりました。今年の受難節は、偶然ではありましょうが、東日本を襲った大震災と重なるようにして過ぎてきました。福島原子力第1発電所の事故は、まだまだ収束の見通しがたっていませんが、私たちは、今回の災害を機会に、生活様式の転換、より質素な生活、また、人と人とのつながり、絆を深めて行くことようにと示されているように思います。
さて、来週は、受難週に入る前の枝の主日として礼拝が守られ、マタイによる福音書に帰りますが、本日は先週に引き続いてヨハネ福音書から福音の記事が与えられ、11:17-53といつになく長いペリコペー、記事が与えられています。いわゆるラザロの復活にちなんでの記事でありますが、復活と言うよりも、ラザロの「起き上がり」死人の中からの生き返りといった実情ではないかと思います。なぜなら、このラザロも、死から命へと戻されたのではありますが、やがて寿命が尽きて、私たちと同じように死んだであろうことは、確かだからであります。
ラザロは、重い病気を患い、危篤となったので、ベタニアの姉妹たち、マルタとマリアは、主イエスに癒してもらおうと主のもとに使いを出したのでありますが、主は、すぐには戻ろうとなさらなかったのであります。それは、ラザロの死を通して、神の業、神の栄光が表わされるためでありました。それから、何日かたって、主は、ベタニアに戻ろうと、言われるのでありますが、弟子たちはあなたを殺そうとしたその場所に再び帰られるのですかと言いますと、ラザロが眠っているので起こしに帰ろうと言われるのであります。
眠っているのなら、目覚めるでしょうと言いますと、主は、ラザロは死んだのだ。私が、そこにいなかったことは、あなた方にとってはよかったと言われます。
ベタニアは、エルサレムから3キロもないほどのいわば、エルサレムの郊外でありました。近くまで一行が来て、ラザロの姉妹たちに来たことを伝えさせますと、マルタは立ち上がって急いで、主のもとに出て行ったのであります。そして、村はずれの場所で主を迎えたのであります。
主よ、あなたがもしここにいてくださいましたなら、私の兄弟は死ななかったでしょうと言い、マルタは、でも、私は今でもあなたが父なる神にお願いするなら、神は何でもあなたにお与えすることは知っていますと言います。ここの個所は、葬儀でしばしば用いられる記事であります。主イエスは、あなたの兄弟は復活すると言われるのであります。マルタは、終わりの日の復活において、彼も復活することは知っていますと言います。当時のユダヤ教、特にファリサイ派は、サドカイ派と違って、死後に、この世の終わりの日に人間は復活するという信仰が一般的になっていました。
主は、私は復活であり、命である。私へと信じる者はたとえ死んでも生きる。私へと信じる者は決して死ぬことがない、あなたは、そのことを信じるかと聞くのであります。
すると、意外なことには、マルタは、はい、私は信じました。あなたは、メシア、キリスト、神の子、この世へとお出でになられたことを信じましたと答えるのであります。今、ここで、主イエスこそ、待たれたメシア、キリストであることを、マルタは表明したのであります。今、私たち、日本人は未曾有の大地震、災害や事故に直面していますが、私は、復活であり、命であると言われる方に、信仰をかけてみるべき機会、絶好のチャンスにさしあたっているとも言えましょう。私たちの自然的な命は朽ち果てても、主イエスをメシアと信じる者には、滅びることのない命が主によって約束されているのであります。
さて、マルタは、そう言ってから、家に帰り、マリアに主がお出でになられていることを伝えます。すると、座って黙想していたであろうマリアはすぐに立って、イエスのもとに急ぐのであります。そして、彼女たちを慰めに来ていた喪中のエルサレムから来た人たちは、彼女が墓に泣きに行くのだろうと思って、マリアを追います。
マリアは、ひれ伏して、主よ、あなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうと、言います。主は、わっと泣かれました。人々は、何とラザロを、イエスは愛していたことだろうかと言います。主はどこに、彼を置いたのだ、葬ったのかと聞くと、人々は、こちらです、御覧くださいと言います。それは、洞窟のような墓でその入り口を石で覆っていました。人々は、盲人の目を開けたこの方でも、ラザロを死なさないようにはできなかったのかと言いました。すると、主は、霊において憤りを覚え、心が揺さぶられました。人々の不信仰に憤りを覚えたのであります。石を持ちあげよと言いますと、マルタが、主よ、もう四日たっていて臭いますと言います。主は、信じるならあなたは栄光を見るであろうと言っておいたではないかと言います。そして、大声で、ラザロよ、出て来なさいと叫ぶと、死人は、手足に包帯を巻いたまま、顔には覆いをかぶったまま出て来ます。そして、彼をほどいてやって、行かせなさいと主は言われたのであります。
このしるし、奇跡を見た多くのユダヤ人たちは主を信じました。しかし、中には、エルサレムに行って、ファリサイ派や祭司長たちに告げる者たちもいました。
サンヘドリン、最高法院を召集して、彼らはこのままだとこの場所、神殿も、国民もローマ人たちによって取り去られるだろうと困惑していました。
すると、カイアファがその記念すべき年の大祭司であったので、言いました。一人の人が死んで、この国民が助かる方がずっとよいことを知らないのかと。これは、彼がその年の大祭司であったので神が彼の口を通して預言させたのでありました。
そして、この日から、彼ら、ユダヤ当局のものたちは、主イエスを殺すことをねがったというのであります。主イエスは、民の罪の身代わりとして、死ぬことになり、また、それを通して、散らばっている神の民を一つどころに呼び集めることになるのであります。
私たちは、まもなく、来週、マタイ福音書を通して、主のエルサレムへの入城を通して主の受難、十字架にお向かいになる記事を読むことになりますが、ヨハネ福音書記者は、ラザロの復活の奇跡が、十字架につながった出来事を、本日の個所において、注目しているのであります。私たちも主のみ後に従って、主の十字架を見上げながら歩んでまいりましょう。

人知では到底、測り知ることのできない平安が、キリスト・イエスにあってあなた方を守るように。アーメン。

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2011/04/10(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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