津田沼教会 牧師のメッセージ
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「今は見えるということ」(ヨハネ9:13-25)
ヨハネ9:13-25、2011・04・03、四旬節第4主日(典礼色―紫―聖餐式)、イザヤ書42:14-21、エフェソの信徒への手紙5:8-14

ヨハネによる福音書9:13-25
 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間がこんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの人は預言者です」と言った。
 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったのかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表わす者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

説教『今は見えるということ』(ヨハネ9:13-25)
 本日の主日の祈りには「恵み溢れる神さま。癒しと赦しのみ力によって、私たちをすべての罪から清め、強くしてください」とあります。四旬節も第4主日を迎え、主の十字架への道行きも深まってきましたが、私たちはここのところ、ヨハネ福音書から、福音の記事を与えられています。先週は、4章のサマリアの女との主の対話、そして、本日は9章の生まれつき目が見えなかった人の目を主が開いたことに関わる記事、そして、来週の主日は、11章のラザロの復活についての長い記事が与えられています。本日の記事も、恵みの神が「癒しと赦しのみ力によって私たちをすべての罪から清め、強くしてくださる」事柄に関わる記事であります。
 さて、本日の部分においては、まず人々が、彼をファリサイ派の人たちのところに連れて来ます。ファリサイ派は最高法院を構成するメンバーでありました。
 再び、そのとき、彼に、かのファリサイ派の者たちも、どのようにして、彼が見えるようになったのかを質問していました。で、彼は、彼らに言います。「その方が泥をこねて、私の両目に向かってあてがいました、そして、私は顔を洗いました、そして、私は見えるようになったのです。」
 ファリサイ派のある者たちは、主イエスが、その盲人であった人を癒したのが、安息日であったので、「イエスは、安息日を守っていないから、神からの者ではない」と言い、一方、別の者たちは、「罪ある人間なら、このようなしるしどもをなすことはできない」と言っていました。そして、そこに意見の食い違い、対立、分裂があったと記されています。
 そこで、彼らは、その盲人であった人に、「彼、イエスについて、あなたは何であると語るのか」と問います。その人は、「彼は預言者です」と答えます。主は預言者以上の方でありますが、この人は、少しずつ少しずつ、イエスがどういうお方であるかを、知らされていくのであります。
 しかし、ユダヤ人たちは、それでも、彼が盲人であったこと、イエスが彼の目を開かれたことを信じゆだねなかったのであり、ついには、その人の両親を呼び出して、その人が彼らの息子であり、生まれつき目が見えなかったかを問うのであります。彼の両親は、「あれは、自分たちの息子であり、生まれつき目が見えなかったことは私たちは承知しています」と答えるのでありますが、「しかし彼の目がどうして開いたのか、だれが、開いてくれたのかは、私たちは知りません」と答えるのであります。
 それは、イエスをメシア、キリストだと告白する者がいれば、だれでもその者は、会堂追放されるとユダヤ人たちは決定していたからであると記されています。彼の両親は会堂追放を恐れて、主イエスについて、信仰告白することをしませんでした。そして、「息子は十分成熟した年齢であり、法的にも成人だから、彼に聞いてください」と言って、主を告白することを恐れて避けたのであります。
 このことの背景には、キリスト者たちが、ユダヤ教の会堂から、排除されている時代背景、ヨハネ福音書記者が直面していた時代の会堂追放という厳しい迫害と困難があったのかもしれません。両親は、ユダヤ当局への恐れのゆえに主イエスへの信仰告白にはついに至らなかったのであります。
 そこで、もう一度、盲人で生まれた人を、彼ら、ユダヤ人たち、当局は、権威をもって、呼び出し、「あなたは、神に栄光を与えよ」、すなわち神の前で正直に答えよと言い、「私たちは、彼が罪人であることを知っている」と言ったのであります。それに対して、彼は、答えて言うのであります。「私は、彼が罪人であるかどうかは知りません。私は、一つのことを知っています。それは、私は盲人であったが、今は見えるということです」と答えたのであります。
 この生まれつき目が見えなかった人は、今までは、物乞いをしながら、苦しい生涯をたどって来たことでしょう。物も見えず、道端に座って、希望もなく生きて来たことでしょう。主イエスは、この盲人で生まれついた人について、それは、両親の罪によるものでもなく、自分が罪を犯したからでもなく、ただ神の栄光を表すためであると9章の始めで言われていました。そして、次第次第に、御自分が何者であるかを、すなわち、メシアであることを、この人に知らしめていかれるのであります。
 そして、新たに、「今は見えるということ」をただ一つ知っていると、ユダヤ教の当局に対して、ユダヤ人のその権威にも、おじけずに、真っ向から証言していくのであります。
 この四旬節も深まる中、この度は、東日本大震災によって、私たちの心は打ちのめされそうにもなります。しかし、主が私たち人類の罪のために、十字架への道を先に歩んで下さっています。私たちは、本日の盲人であった人と共に、「私は盲人であったが、ただ一つ知っていることは、今は見えるということです」と告白し、癒しと赦しの御力によって、私たちをすべての罪から清め、強くしてくださいと恵み溢れる神に祈ろうではありませんか。

天の父なる神さま。
私たちは今、東日本大震災という戦後未曽有の危機と困難の中に置かれています。物に満ち足りていた今までの生活から、根本的に一人一人が生き方を変えて、生活を立て直す必要に差し迫られています。人と人との絆が薄くなっていた生活から、これからは助け合いと思いやりに満ちた生活、社会に向かわなければなりません。
 主の十字架への道行きに、私たちも、従っていくことを得させてください。亡くなられた多くの方々の上に、あなたの顧みが豊かにありますように。特に、この時期、政治と宗教の働きが、あなたによって、力強く導かれますように。一人一人の祈りに合わせ、キリストのみ名によって祈ります。アーメン。




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2011/04/03(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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