津田沼教会 牧師のメッセージ
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「私たちのために命を献げてくださった方」(マタイ20:17-28)
マタイ20:17-28、2011・03・20、四旬節第2主日(典礼色―紫―)、創世記12:1-8、ローマの信徒への手紙4:1-12

マタイによる福音書20:17-28
 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」

 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何か望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたち者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」




説教「私たちのために命を献げてくださった方」(マタイ20:17-28)

主の十字架を覚える四旬節、レントの期間にも、私たちは、主日には主として福音を聞くために、それにふさわしい福音書の記事が与えられています。本日は、マタイ20:17-28が与えられています。
第三回目の受難予告と、その直後、その時に起こったエピソードが与えられています。一読しただけですと、どうして、ここが、四旬節としてふさわしいのだろうか、よく分りません。しかし、注解書などを使って読み込んでいきますと、少しずつ、なぜ、この四旬節第2主日に、ここが与えられているのかが分かって来るのであります。今は、東日本での先日の大地震、また、津波による非常な被災という困難な中での主日礼拝が守られています。
 さて、本日は、まず、最後の受難予告の記事が、まず、記されています。「そして、主イエスはエルサレムへと上って行かれる時、12弟子たちをも伴った、そして、彼らだけを自分のもとに呼び寄せて、語られる」のであります。「見よ、私たちはエルサレムへ上って行く、そして人の子は、祭司長たちや律法学者に渡されるであろう、そして彼らは彼に死刑の有罪判決を出すであろう。そして、彼らは異邦人に彼を渡すであろう、そして異邦人たちはあざけり、鞭打ち、十字架につける、そして、彼は三日目に起き上がらされるであろう」と、記されています。第3の受難予告として、主がどのような苦しみを経て、十字架につけられ、復活することになっているかを明瞭に弟子たちに伝えています。弟子たちの反応は書かれていません。
「その時、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母が、やって来てひれ伏し、何かを要求する」のであります。主は、「あなたは何を求めているのか」、と聞くと、その母親は、「あなたのみ国において、私の二人の息子をあなたの右と左に座れると言ってください」、というのです。それに対して主は、「あなた方は何を求めているのか分かっていない。私が飲もうとしている杯をあなた方は飲むことができるか」、と問われるのであります。二人は「出来ます」と答えます。
主は、エルサレムに上って、苦しみを受け、十字架の死を遂げる、主の飲もうとしている杯とは、エルサレムで受ける苦難、試練の杯であります。私たちは、主のそのあとのご復活を喜びあうのでありますが、その前に受ける苦しみと、主の死を忘れがちであり、死というものを直視しない傾向があります。そして、主に従う私たちも、苦難を避けて通れるものならそうしたいと考えがちです。
大地震で無数の人が、あるいは亡くなり、あるいは被災者として避難生活を送っていますが、私たちは、それらの困難に遭わなければよいと思っています。
しかし、クリスチャンは復活の喜びと共に、主の十字架に従って、それぞれの十字架を担って、日々を歩まねばならないのであります。さて、この二人の出しぬきの、先駆けの功名、栄誉を手にしようとしたことを、聞いた残りの10人はそのことで怒ります。
すると、主は、彼らにお語りになります。「異邦人たち、ローマ人たちは、その長が彼らの上に支配をし、大きい者たち、偉い者たちは、彼らに圧政を強いている。しかし、あなた方においてはそのようであってはならない、そのようではないだろう。あなたがたにおいては、大きい者になりたい人は、あなた方のディアコノス、奉仕者になるであろうし、第一でありたい者は、あなた方の奴隷になるであろう」、と言われます。そして、「ちょうど、人の子、私が、やって来たのは仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの者のために、その罪から解放する身代金として、私の命を与えるためであるのと同じである」と言われるのです。
私たちのために、罪の代価としての身代金として、主イエスは、その命をささげてくださるのです。主イエスのほかに、私たち全人類のために、命をささげてくださる方は、聖書によれば他に誰もいないのです。この日本での今回の大きな災害の中で、私たちは、信仰を失わず、道において迷わずに、主が示して下さる道を、またここから、力を合わせて、歩み出して行きましょう。

天の父なる神さま。
 私たちをして、この混乱の時、一つとなって、被災者のためにできることを、こなしていくことを得させたまえ。新聞記者や、報道機関などの職についている方々を特にお導きください。現場で、災害の復旧に携わっている人々をもあなたがお守りください。キリストのみ名によって祈ります。 


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2011/03/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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