津田沼教会 牧師のメッセージ
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「恵みに目を向けよう」(マタイ6:24-34)内海望先生
マタイ6:24-34、2011・02・20、顕現節第8主日(典礼色―緑―)イザヤ書49:13-18、コリントの信徒への手紙一4:1-13

マタイ6:24-34
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」


説教「恵みに目を向けよう」(マタイ6:24-34)内海望牧師
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方に合うように。

 今日の聖書日課は、私たちの心をなごませます。「あなたがたの天の父は、あなたがたに必要なものを御存知である。だから、思い悩むな。すべてを神さまに委ねよ。」とイエスさまは命じておられます。何か心が軽くなるような気持ちがします。しかし、ここで私たちはイエスさまから問いかけられてもいるのです。「聖書を読む」ということは、聖書から問われるということでもあります。
 「思い悩むな」ということは命令ですから、「守れ」とおっしゃっているのです。また、このイエスさまの命令は極めて当然です。私たちが思い悩むのは自分の命を守るためなのです。しかし、27節で語られている通り、私たちがいくら思い悩んでも寿命をわずかでも延ばすことは出来ません。それどころか、そもそも私たちは命が与えられる時である誕生そのものも自分の力ではどうにもなりません。つまり、人生そのものが初めから終わりまで与えられたものであり、人間の力ではどうすることも出来ないのです。すべては、神さまのみ心にあるのです。
 それでも、私たちは明日のことを思い悩み、奪い合い、口角泡を飛ばして人と争っているのです。キェルケゴールは、「小鳥は、湖面にすっと舞い下り、必要なだけの水でのどを潤すと、さっと飛び去る。しかし、人間は湖の岸に座って水を飲みほそうとしている」と人間の貪欲さをシニカルに描写しています。ここには貪欲のため、人間関係を壊し、心に憎しみさえも抱く私たち人間のみじめな重苦しい心が映し出されます。
 このような私たちの姿は、イエスさまの「思い悩むな」という慰めにみちた命令を無視していると言えないでしょうか。言い換えれば、私たちは神さまの約束を心の奥底では信頼していないのです。ですから、神さまの力が十分でないかのように、安心して生きていけるよう貪欲に奪い合っているのです。そして、「いざという時は何とか助けて下さい。」と神さまを都合よく利用しようとしているのではないでしょうか。
 私たちは山上の説教をここ数週間読んでいますが、本当に真剣にイエスさまのみ言葉に信頼し、応答しているでしょうか。イエスさまは、私たちに真剣に語りかけて下さっているのです。ところが、私たちは聖書を道徳の教科書のように読んでいるのではないでしょうか。そして、イエスさまのことばを、自分の努力目標のように内容を薄めてしまっているのです。しかし、イエスさまは、全身全霊をもって、私たちに語って下さっているのです。これはもう対話というよいり、真剣な一対一の対決です。
 間違ってはいけません。イエスさまが、「敵を愛せよ」とおっしゃったら、その通りしなければいけないのです。「体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちないほうがましである。」とおっしゃったら、これもその通りなすべきなのです。たとえではありません。
 このようなイエスさまの語りかけに真正面から答えようとした人々がいます。その一人がルターでした。彼はイエスさまの命令を忠実に守ろうと自分の未来の栄光をみな捨ててしまって、修道院に飛び込み、努力を重ねたのです。その熱心さは同僚の修道士を驚かせるほどであったと伝えられています。しかし、ルターが最終的に、神さまの前で見出したのは「罪を犯している私」ではなく「全く罪人である私」でした。たとえば、祈っている時でさえ自分のことを考えている自分を見出して、絶望しました。もうあれこれの小さな過ちのことではなく、心の底まで罪人である自分の発見でした。罪の底知れない深さに震えあがったのです。ルターは、本日の第二の日課に書かれているように「闇の中に隠されている人の企てを明らかにされる神さま」の前では逃げ隠れ出来ない罪人である自分を発見しました。
 これに反し、私たちは、自分で何とか言い逃れが出来る範囲に罪を小さくしてしまおうとしています。自分で償える程度に罪を小さく縮めてしまっているのです。そして、小さな懺悔でごまかそうとしているのです。
 ところが、そのような不誠実な罪人である私たちを救うためにイエスさまは命を捨てて下さったのです。パウロはこう言います。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思われず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、・・・へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2章)。イエスさまは神の子という栄光を投げ捨て、私たちに仕える僕となり、私たちを救うために十字架に死んで下さったのです。
 イエスさまは、罪人であり絶望のどん底に落ちているルターのために死んで下さった方です。そして私たち一人一人のためにも。ルターは、これを信じた時、天国の門が眼前に開かれたような思いだったと語っています。イエスさまは僕として私たちを支えて下さっているのです。そして、十字架の血によって私たちの罪を贖って下さったのです。私たちが、罪を小さくし、あれこれとぐずぐず言い抜けようとしている間は、この大きな恵みが見えません。小さな罪には小さな恵みしか見えないのです。私たちは、あたかもイエスさまの十字架の死など必要ないかのように生きてはいないでしょうか。小さな懺悔ばかり繰り返しても、決して喜びは得られません。しかし、「罪人である私を救って下さい!」とみ前にひれ伏す時、私たちには新しい天と新しい地を見るような喜びが沸き起こって来るのです。
 ルターは盟友のシュパラティンという人物が、牧師として誤った判断をしてその罪に苦しんでいると聞いて、次のような手紙を書きました。「確かに、あなたは罪を犯しました。しかし、あなたが悩んでいる姿は、あなたのことを思いやることのできる方をもはやひとりも持たなくなった最初の人のようです。どうぞ、私ども、とんでもない罪人たち、頑迷固陋な罪人の仲間入りをして下さい。そのようにして、キリストを、絵空事の、子どもっぽい罪からしか救えないような小さな、頼りない存在にしてしまわないようにして下さい。」と。
 「絵空事」、まさにそうではないでしょうか。絵にかいたような罪人になりたがっている、だから絵にかいたような恵みしか得られないのではないでしょうか。
 ほんものの罪人だけが、本物の恵みを喜ぶことが出来るのです。私たちは罪人ごっこをしているのではありません。正真正銘「死すべき罪人」です。その私を救うためにイエス・キリストは十字架に死んで下さったのです。この十字架の愛を信じて本物の恵みの喜びにあずかりましょう。
 聖書を読んでいつも心打たれる個所の一つは、中風を患って床から一歩も離れることが出来ない人のことです。友人たちが、彼を担架に乗せて運んできます。イエスさまは、「あなたの罪は赦された。起き上がり、床をかついで家に帰りなさい。」とおっしゃいます。「その人はすぐさま起き上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら帰って行った」と聖書は、その時の様子を伝えてくれます(ルカ5章)。彼は、イエスさまのもとに来た時は苦しみに縛り付けられていました。しかし、イエスさまから赦しを受けて、今まで自分を縛りつけていたベッドを肩に、軽やかな足取りで帰って行く姿は感動的です。重荷が重荷でなくなったのです。
 今日は、私たちは絵空事でなく、本物の恵みを頂き、感謝し、喜んで家路につきたいと思います。すべての罪、思い悩みはもはや私を苦しめません。イエス・キリストの十字架の愛を信じることによって軽やかな足取りが与えられるのです。
 「すべてを神さまに委ねる」、これは決して無責任な生き方ではありません。罪を赦して頂いたその時、私たちは気付くのです。「信仰とは、生き生きとして、絶えず善いことをせざるを得ない喜びを与えてくれる」ということを。私たちの心は、自我から離れて他者に向かうようになるのです。イエスさまから頂いた赦しの恵みは必ず実りを生み出すのです。私たちは祝福を持ち運ぶ者に変えられるのです。
 まさに人知では測り知ることのできない平安が、私たち一人一人に与えられるのです。
アーメン。
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2011/02/20(日) 10:30:05| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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