津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主と共にあって全き者に」(マタイ5:38-48)
マタイ5:38-48、2011・02・13、顕現節第7主日(典礼色―緑―)、レビ記19:17-18、コリントの信徒への手紙一3:10-23

マタイ5:38-48
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」



説教「主と共にあって、全き者に」(マタイ5:38-48)

本日の福音、マタイ5:38-48は、反対命題と呼ばれるものの最後を形成しています。そして、マタイ5:38-42は、復讐しないように、という内容であり、5:43-48は敵を愛しなさいというものであります。私たちの生まれつきの性質からはとてもできない二つのことを扱っています。
最初の部分から、見ていきましょう。主は言われます。あなた方は目には目を、歯には歯をと言われていることを聞いている。しかし、私は言う。悪人に手向かうな。もしも、だれかが、あなたの右のあご骨を打つなら、他方をも向けなさいと、主は言われます。「目には目を」「歯には歯を」というのは、はるか昔、紀元前1800年ほども前のハンムラビ法典に出てくるものであります。これは、血による一族への報復を禁じるものであり、同害報復と言われるものであって、復讐を制限する趣旨の法典でありました。旧約聖書もそれにのっとっているのであります。目には目を、歯には歯を、あるいは、やけどには、やけどを、などと出て来ます。
 しかし、これでは、十分な、徹底した解決にはならないのであります。記憶に新しいアメリカで起きた同時テロに対して、アメリカは、テロ集団に対して報復の戦争を始め、その結果は今も、自爆テロなどによって、戦争はやむことなく続いているのであります。
 主イエスは、右のあごを打つ者には、左のあごをも向けよと言われます。右のあごを打つということは、その相手が右手の甲で通常打つことになり、それは、非常な侮辱を与えることを意味しています。しかし、主は、侮辱されても仕返しをせず、他の頬をも向けよというのであります。
 この復讐するなという教えは、3つほどの例が挙げられています。いずれも、法廷での訴訟や、法律に関わる事柄が前提とされています。もし、相手が訴えて、下着を要求するなら、上着をも与えなさい、と主は言われます。肌着は何枚か、当時の人々も持っていたでしょう。それを訴訟で求める者には、上着をも差し出せと言われるのです。上着は、旧約の律法では、寝具として、夕方までには、質に取っていても返さなければならないと定められていました。しかし、主は、それをも、相手方に与えるがいいと言われるのです。
 「権利のための闘争」という本を大学時代に手にしたことがあります。権利を守るためには、徹底して戦わねば、正義や人権が保てないといった趣旨であったと思います。しかし、主は、訴訟で、下着を訴える者には、上着をも与えなさいというのです。
 また、だれかが、1ミリオン、1.5キロメートルほど強制したならば、彼と共に2ミリオン、出て行くがよいと言われます。当時のローマ軍の兵隊の所持品を、市民は運ぶように徴用されることが一般に行われていました。主は、それに対しても、一般に課せられていた1ミリオンにとどまらず、2ミリオン、一緒に行きなさいと命ずるのです。また、あなたに、借りることを求める者には、返してもらうことを期待せず、与えなさいとまで言われ、あなたから、借りようとする者には、顔をそむけないようにとお命じになるのです。報復は、神のすることであるとローマの信徒への手紙でパウロも言っています。悪人に手向かわず、報復を徹底して退ける生き方を、主は勧めておられるのです。主日の祈りにありましたように、神に、「私たちの願いに心を傾けて、私たちがなすべきことを悟り、喜んで行う力を与えてくださるように」私たちは願い求める時、祝福される生き方を知るのではないでしょうか。
 次に、後段の5:43-48であります。あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎むようにと、言われていることをあなた方は聞いていると、最後の反対命題を、主は言われます。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよと、本日の旧約聖書の日課、レビ記19:18には出ていましたが、あなたの敵を憎めとは、旧約聖書の中には、直接は出て来ないのであります。クムラン教団の信徒たちには、自分たちを世から選ばれた光の子として、愛し合い、他の者たちを闇の子として分別するようにという訓練の手引にはありましたが、いずれにしろ、主イエスは、しかし、私は言う、あなたがたの敵どもを愛しなさい、また、あなた方を迫害する者たちのために祈りなさい、というのです。そのようにして、あなた方は天におられるあなたがたの父の子らになると、言われ、なぜならば、父は、悪人どもにも善人どもにも、彼の太陽を昇らせ、正しい人たちに向かっても、不正な人たちに向かっても、雨を降らせるからである、と言われます。私たちの天におられる父は、そのように寛大で憐れみに富みたもうお方であります。
 そして、主は言われます。あなた方を愛する人たちを愛したとて、どんな報いがあろうか、徴税人たちも、自分たちを愛する者たちに同じことをしているではないかと。徴税人たちは、強欲で、また、ローマ人たちと触れ合う者たちとして、汚れているとして差別されていました。
 また、主は、自分たちに挨拶してくれる人たちとだけ挨拶したところで、どんな顕著なことをしていることになろうか、それなら、異邦人たちも同じことをしていると、言われました。この挨拶というのは、単なる挨拶ではなく、挨拶する相手の平和と福祉を心から願ってあげることを意味しています。
 主は、それゆえ、あなた方の天の父が完全であるように、あなた方も完全な者になりなさいと結ばれています。性格や性質において、父なる神のように完全な者に成ることは私たちにはできません。私たちは、身近なところで、たとえば、家庭において、ひどい言葉を使ったり、相手を傷つけるようなことをも、しがちな者であります。
 しかし、主と共にあって、和解と愛において主イエスと結ばれるときに、私たちの天にいます父と同じようにまったき存在になるであろうと、主は約束なさるのであります。
 昔、もう20年近くなるでしょうか、アメリカからJ3として日本の熊本に派遣されて九州学院でありましたか、英語の奉仕などをしていたロバートという青年がいました。ところが、天草のあたりでしたか、J3の皆とサイクリングをしていて、確か、居眠り運転の主婦に引かれてなくなりました。
 その両親は悲しんだことでしょうが、アメリカから訪れて、損害賠償などはしないで、その主婦のことを赦してあげました。そして、その主婦も、ルーテル教会にも訪れたりしたということです。
今日の福音の個所は、復讐するなという教えと、敵を愛せよ、そして、あなた方の天の父の子らになるのだから、父のように完全な者になりなさい、なるであろうという命令と共に約束の言葉でありました。
 私たちも、日常生活の身近なところから、本日の主イエスの言葉を、具体的に実行する者になることができます。私たちは、主イエスの言葉に従っていく時、主イエスと共にあって、全き者になることができると、主御自身によって招かれています。復讐せず、敵をも愛し、私たちのなすべきことを、悟り、喜んで行う力を受けていきたいものであります。
一言祈ります。
父なる神さま。私たちは、性格において欠け多く、非常に弱い者でございます。しかし、主イエスの言葉に従っていく時、私たちの父なる神であるあなたのようにすべての人に憐れみ深く、全き者へとあなたは、私たちを成長させてくださいます。反対命題のいくつかの主の言葉を聞いて来ましたが、私たちが主の言葉と共にあって、それらを実行していく者と成らせて下さい。
 そして、地の塩、世の光として歩み、人々が天にいますあなたをあがめるように、私たちの光を人々の前に、輝かすことができますように。キリスト・イエスによってお祈り致します。アーメン。

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2011/02/13(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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