津田沼教会 牧師のメッセージ
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「キリストも洗礼を受けられた」(マタイ3:13-17)
マタイ3:13-17、2011・01・09、主の洗礼日(典礼色―白―)、イザヤ書42:1-7、使徒言行録10:34-38
 
マタイによる福音書3:13-17
 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

説教「キリストも洗礼を受けられた」(マタイ3:13-17)
 
本日は、「主の洗礼日」の礼拝です。「主イエスは、その時、ガリラヤから、ヨハネに向かって、ヨルダン川へと、洗礼を受けるために、到着なさる」と本日の記事は始まっています。その場所や日時については、詳しくは書かれていません。しかし、マタイは、その時の洗礼者ヨハネのためらいを記しています。「彼は何とかそれを回避しようとしていた」とあり、彼は語るのです。「私こそ、あなたから洗礼を受ける必要を持っています、そして、あなたが私に向かってお出でになられるのですか。」
 主イエスは、「今はあなたは認めていただきたい。こうして、私たちでもって、すべての義を満たすことは、適切なことです」と答えて言われたのであります。「すべての義を満たす」とはどういうことでありましょうか。「私たち」とは、主イエスと洗礼者ヨハネのことでありましょうか。それとも、この記事を読んでいる者たち、今の私たちをも、含めて言っておられるのでありましょうか。
 この記事を読んでいる私たちをも含んでいるとすれば、どうなるのでありましょうか。主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けることは、私たちにとっても、神との関係がまっすぐな、正しいものになることでありましょう。主は、後に、「あなた方の義が律法学者たちやファリサイ派の人々の義に勝ったものでなければ、あなた方は天の国へは入れない、救われない」と言われました。キリストが洗礼を受けられることは、すべての義を満たすことになる、そして、私たちの生活の義が満たされ、まっとうされることになるのであります。
 続いて「その時、彼は彼にそうさせる」とマタイは記しています。そして、洗礼者ヨハネの出る幕はそこで終わっているのであります。そして「水から主イエスは直ちに上がられたとき、天どもが、彼でもって、開かれた」とあります。これは、エゼキエル書1:1に同様な記述が見られます。黙示文学的な啓示の表現であります。
 「そして、見よ、彼は、神の霊が鳩のように降って来るのを、そして、彼の方へとやって来るのをお認めになった」とあります。神の霊、すなわち、聖霊がくだり、鳩のようにくだってくるのみならず、御自分の方へとやって来るのに気付かれたのであります。
これは、神の霊が、主イエスの方へと、油注がれ、メシアとしてのイエスを表しているのであります。
 さらに、続きます。「そして、見よ、天からの声が。すなわち、『彼は、私の愛する息子、
彼において、私は喜んだ』と」とあるのであります。
 だれに向かって、この天からの声は、成ったのでありましょうか。それは、天の法廷における者たちに向かって、成り、彼らが聞いたのであり、主イエスはそれを耳にするという特権を与えられていたと考えることもできます。
 「彼は、私の息子」というのは、詩編2:7からのものであり、主イエスが神の子であることを表明しています。そこでは、「あなたは、私の子、今日、私はあなたを生んだ」とあります。マタイは、「彼は私の子」というふうに、記し、より客観的に、洗礼を受けた主イエスを神の子として、表明しているのであります。
 さらに、彼は「愛する者」と言われています。これは、イザヤ書42:1から来ています。「愛する者」というのは「選ばれた者」「愛する一人子イサク」のような表現とつながっています。
「私の心に適う者」というのは、直訳すると「彼において、私は喜んだ」であります。これも、イザヤ書42:1から来ています。すなわち、彼、主イエスが主の苦難のしもべであることが、予表されているのであります。
 洗礼者ヨハネによる主イエスの洗礼は、主の宣教の準備であります。そして、この直後に、主は40日間の荒れ野の試みに遭われます。
 本日の主日の祈りに「私たちにも、キリストの洗礼を通して、永遠の命を与えてください」というふうな文句がありました。
 私たちのうちの信徒は、み名による洗礼を受けています。私たちは、本日の主イエスが、メシアとして、苦難のしもべとして、また、神の子として、洗礼をお受けになり、それを通して、私たちもまた、すべての義の生活を満たすことができることを知らされています。
 しかし、1週間の間にも、サタンの試み、誘惑、思い煩い、主のみ前に罪を犯さざるをえない弱い自分をも私たちは改めて知らされます。
 私たちが救われる方法は、本日の洗礼をお受けになった主イエスを唯一の救い主として受け入れ、日々新たに罪に死に、キリストの洗礼を思い起こすことによってしか、救われる見込みはありません。
 2011年の始まりにあたって、主イエスの洗礼の時の出来事を、今再び、新たに思い起こしながら、一人一人の歩みが、また、津田沼教会の歩みが、み言葉に立って、順調でありますようにと願います。
祈りましょう。
天の父なる神さま。
私たちは、キリストの洗礼の折の出来事を再び知らされました。罪多き者でありますが、本日知らされました主イエスの栄光を、私たちも輝かすことができますように。世の中は、先行きが不透明で見通せず、闇がおおっているようにも思えますが、特に政治家や経済界の人々、また、新聞記者や報道に携わる人々を、上よりの力でもって導いてください。私たちの家庭に平安をお与えください。そして、世界が平和になりますように、導いてください。キリスト・イエスによって祈ります。
 


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2011/01/09(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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