津田沼教会 牧師のメッセージ
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「私の魂は主をあがめ」(ルカ1:46-55)
ルカ1:46-55、サムエル記上2:1-10、ローマの信徒への手紙2:17-29、2010・12・19、待降節第4主日(典礼色―紫―聖餐式)

ルカによる福音書1:46-55
 そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも
 目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も
 わたしを幸いな者と言うでしょう、 
力ある方が、
 わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」



説教「私の魂は、主をあがめ」(ルカ1:46-55)

 皆さん、クリスマスおめでとうございます。本日は、正確には、アドベント第4主日でありますが、次週になりますと、12月26日になりますので、少し早めて、主イエスのお誕生を祝うのであります。
 本日の記事ルカ1:46-55は、マグニフィカートとして、有名なものであり、この後にはベネディクトスと言われますザカリアの賛歌がありますが、ルカ福音書における最初の賛歌、賛美歌として位置しているものであります。
 これは、ユダの山里へのマリアのエリサベト訪問の後に位置しています。エリサベトが、マリアを歓迎して、語っていますので、それに引き続く本日の記事も、エリサベトが歌ったものではないかという説もありますが、内容からしても、やはり、マリアが歌ったもの に違いないのであります。
 マリアは、エリサベトの挨拶につづいて、この賛歌を歌い始めます。前半は、マリア自身に関する個人的な思いを語ったものであり、後半は、政治的な、あるいは、社会的なテーマを歌ったものであります。マリアが、ここに記されているとおりに、始めから終りまで、一気に歌い上げたかどうかは、よく分かりませんが、ルカが、伝えられて来た伝承を、現在の形に整えていくらか編集を加えたものでありましょう。
 本日の第1の朗読に、サムエル記上の2:1-10が読まれましたけれども、これも、マリアの賛歌に、影響を与えているものと思われます。
 マリアは、エリサベトの挨拶に対して、こう語り始めるのであります。「私の魂は主をあがめます。」これは、わたしの魂は主を拡大するというのが、もとの意味です。そして、「私の霊は、御神、私の救い主の上に大喜びした」と続いていますが、この後も過去形で読み取れますが、それは、現在形の意味にとっても間違いではありません。私たちの新共同訳の聖書は、この後も、多くは、現在形で訳されています。
 そして、「なぜならば、彼、神のはしための低い状態、不面目の方へと彼は凝視して下さったからである」と言います。きっと貧しい名も知られぬおとめとして、マリアは歩んで来ていたのでしょう。しかし、神は、そんな彼女を選び、お求めになったと、マリアは、畏れを持ちながらも、神に感謝しているのであります。
 そして、「なぜならば、見よ、この今から、すべての世々の人たちは、私を祝福されたものと呼ぶでしょうから」、と言うのです。マリアは、受胎している主イエスが、どのような体験をし、成長し、そして、どんな死に方をするかは、この時にはまだ知らなかったでありましょう。
 マリアは続けます。「なぜならば、私に、力ある方が、大きなことどもをなさったからである」と歌います。神さまが、私を選んで、救いを成し遂げる者としてくださったと、賛美するのであります。そして、「彼の名は、尊く、聖なる方であり、そして、彼の憐れみは、世々、彼を畏れる者たちにある」と述べるのであります。
 そして、1:51から、政治的な、あるいは社会的な側面から、神についてほめ歌うのであります。「彼の腕において、力ある業を彼はなさる、彼らの心の性質に従って、おごっている者たちを、彼は散らされる」というのであります。政治的な圧政者を神は裁かれるのであります。マリアの信じる神は、エジプトの圧政のもとから、奴隷となっていたイスラエルの民を導き、救った神であります。
 「王座から支配者たちを、彼は引きづり落とされる、そして、低い者たちを、彼は上げられる」のであります。低くされている者たちを神は引き上げられるのであります。
 そして、経済的にも、空腹である者たちを、彼は、良いもので満足させられます。そして、裕福になっている者たちを、空しい手にして、彼は送り出す、追い払われるのであります。神は救いと共に、裁きをもたらすお方であります。
 そして、「神は、彼の僕イスラエルを助け、憐れみを思い出される」のであります。「ちょうど、私たちの父祖に向かって彼が語られたように、アブラハムに、そして彼の子孫に、永遠に」、と言うのであります。それは、永遠にアブラハムのすえを、神は思い出されるという意味であります。
 マリアは、一ユダヤ人として、ユダヤ人の中の、アブラハムの霊的な子孫が、神の憐れみと助けを受けると信じていたでありましょう。後に、使徒たちが全世界に教会を広めていった事実は、マリアの思いを超えていたことでありましょう。アブラハムの真実な、霊的な子孫が、神の憐れみを受けるのだと、当時の敬虔なユダヤ人たちと同じ思いでこの歌を歌ったことでしょう。
 私たちは、今、正式な意味でのクリスマスを目前にしています。本日の高らかなマリアの歌を私たちも、同じ思いで高らかに歌いたいものであります。
 ユダヤのナザレの貧しいおとめ、マリアの歌った賛歌は、私たちクリスチャンも、同じ思いで歌い上げることが許されていますし、歌うように招かれています。
 アドベントの最後の主日が来ました。クリスマス、おめでとうという喜びの挨拶を、本日のマリアの賛歌と共に、心から歌い上げ、新しい一年を、罪から自由とされて、歩んでいこうではありませんか。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

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2010/12/19(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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