津田沼教会 牧師のメッセージ
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「ヨセフの神信頼」(マタイ1:18-23)内海望牧師
マタイ1:18-23、2010・12・12、待降節第3主日(典礼色―紫―)イザヤ書7:10-14、ローマの信徒への手紙1:1-7

マタイによる福音書1:18-25
 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。


説教「ヨセフの神信頼」(マタイ1:18-23)内海望牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 私たちは、教会暦によってアドベントの後にクリスマスが来ることを知っています。ですから、当然のようにクリスマスの準備を始めています。しかし、イエスさまがこの地に来られるまでには様々な困難がありました。「主イエスの降誕」という出来事は簡単ではなかったのです。今日の聖書日課は、その一つを、ヨセフという人物を通して伝えてくれます。
 マリアと同じように、ヨセフも救い主が自分の家で成長するなどとは全く考えていませんでした。婚約者マリアに聖霊によって救い主がみごもるというようなことは晴天に霹靂の出来事でした。ヨセフの驚きはマリアと同じでした。
 ところで、19節は、長い間、私にとってはわだかまりのある個所でした。一読すると「正しい人」と形容されているヨセフが今起こった事柄を隠してしまおうとしているように感じられたからです。文語訳も口語訳も、新共同訳も、ヨセフの態度を「表ざたにしないように」とだけ記しているからです。「マリアが間違ったことをした。だから隠しておこう。」と読めるのです。悪意を持って考えるならば、ヨセフは自分が正しい人であり続けるためにマリアを離縁しようとしていると読める文章です。しかし、それにしては、天使の言葉を聞いた後のヨセフの行動を考えるとつじつまが合いません。ヨセフは、本当に素直に、しかも命をかけて幼児イエスさまを守り抜いた人物です。2章13節以下を読むと分かります。ヘロデがイエスさまを殺そうとしているとの情報を主の天使から聞いた時、夜中にもかかわらず、飛び起きてマリアと幼児イエスさまを連れて、遠いエジプトまで旅した人物です。竹下節子さんの手を借りると、次のような情景になります。「ヘロデ王が子どもを殺そうとしていると天使に告げられると、神の加護を祈るでもなく、仕事の始末をするでもなく、飛び起きて、夜逃げ同然に幼子とその母を連れてはるか、エジプトまで亡命した。驢馬の背に母子を乗せ、自分はその驢馬を引いて、二本の脚でひたすら荒野を歩いたのだ。」と。乳飲み子とその母を抱えながらの旅の困難さは想像を絶します。難民の苦しみであったでしょう。
 このようなヨセフが、どうしてマリアに冷たい仕打ちが出来るのでしょうか。しかし、私のわだかまりはルター訳のドイツ語聖書によって解決しました。ルターは、「ヨセフはマリアが恥辱を受けないように」、あるいは、「貶められないように」と訳しているのです。つまり、何とかマリアを救いたい、彼女の名誉を守りたいと願って「ひそかに離縁しようとした」と訳したのです。現在でも、ドイツ語の注釈書は、私の知る限り、このルター訳を用いています。ルターは、決して重箱の隅をつつくような聖書学者ではありませんでした。一つの文章にこだわるのではなく、聖書全体から考えていこうとする人でした。そこで、ルターはヨセフの生き方全体から考えて正しく意味をつかんだのだと思います。私は、これが聖書の正しい読み方であると信じています。
 ここで、私たちはもう一つのことを教えられます。それは、「正義」と「愛」の関係です。「正義」という言葉は危険です。何故なら、「正しさの主張」は、往々にして愛を失います。しかし、いくら正しいことを主張していても、愛がなければ、それはただ人を抑圧するだけの結果になってしまいます。正しくない人を再び新しく生かすことは出来ないのです。もちろん、反対に「正しさが失われた愛」も間違っています。それは、単なる「甘やかし」になってしまうからです。「正義と愛」は表裏一体なのです。
 正しい人ヨセフは、目の前の出来事に苦しんだと思います。正しさを貫きたい、同時にマリアを救いたいという矛盾です。しかし、彼は、その「愛と正義」の葛藤を越えてマリアを助けようとしたのです。
 更に、重大なことがあります。もし、これが表ざたになったならば、マリアは石打ちの刑に処せられる可能性もあったのです。死ぬまで石を投げ続けるという、今日の私たちから見れば、真に残酷な刑罰です。ヨセフの愛の行いによって、マリアは死をまねかれたと言っても過言ではないでしょう。
 しかし、それでも、この時点ではヨセフはまだ主の天使の声は聞いていません。
 ヨセフという名前はマリアと共によく知られていますが、私たちの印象では、また教会の歴史でも、なぜか背景の人物です。しかし、今日の日課を読む時、私たちは、彼がイエスさまの来臨(クリスマス)になくてはならない人物であったことが知らされます。彼は、マリアと幼子イエスさまを救ったのです。クリスマスの喜びは地上にもたらされたのです。
 ところが、2章以下ではヨセフは忽然と消えてしまいます。ここでも2章どまりです。マリアは十字架のイエスさまを見届けているのに。
 ヨセフがその後どんな人生を送ったのか、私たちは何も知らされません。私たちの前には、マリアを愛し、石打ちの刑から救い、マリアと幼子イエスさまを驢馬に乗せてひたすらエジプトの地に向かって二本の脚で歩き続けたヨセフの姿だけが残されているのです。
 しかし、ヨセフは天使が告げた喜びのメッセージ、すなわちこの幼子が民を罪から救うために、この世に来られたこと、このことによって、この世界に光が来たこと、インマヌエル(神は我々と共にいる)が実現したことを堅く信じていました。その喜びで、ヨセフは一生を生きるに充分な力を与えられたのです。
 この一事を信じ、黙々と与えられた責任を果たし、静かに歴史の表舞台から消えていったのです。彼は、その人生において自分の才能を花咲かせようとか、自分の有用性をしっかりと打ちたてようとかしませんでした。イエスさまの十字架の死も知らなかったかもしれません。それでも、神さまから与えられた一つの役割を、実直に、同時に暖かい心で、果たしたのです。知らずして、救い主の降誕になくてはならぬ者として用いられていたのです。このことを、ヨセフは頭では理解できなかったでしょう。しかし、これが彼の人生であり、彼にとっては充分生きた人生でした。
 振り返って、私たちの人生を考えてみましょう。私たちは、「クリスチャンらしく生きよう」とか、「また罪を犯してしまった」とか右往左往しながら、生きています。このような生き方は謙遜な生き方のようで、実は自分の力で聖人になろうとする思い上がりかもしれません。私たちは、どうあがいても罪の力には勝てない罪人なのです。だからこそ、神さまの独り子であるイエスさまが、私たちを罪から救うためにこの世界に来られたのです。それほど、罪は深く私たちの心をむしばんでいるのです。イエスさまは、そのような私たちの罪を贖い、「私は世の終わりまで君たちと共にいる」と約束して下さったのです。イエスさまの十字架による赦し以外に私たちを救う手だてはないのです。
 これほどの高価な恵みがあるでしょうか。ですから、罪を隠しながらでなく、大胆に本物の罪人になりましょう。そして、もっと大胆にイエス・キリストの十字架の赦しを信じましょう。そして、罪を大胆に悔い改め、救いの恵みに感謝して、与えられた人生を、素直な心で、実直に歩みましょう。ヨセフのように。
 以前、ルターの「主が、あなたを用いて大きなことをなさろうとしているという信仰を失ってはいけない」という言葉を紹介しました。これを改めて思い返し、心に留めていただきたいと思います。
 私が何をしたか、何をしなかったかはもはや問題ではありません。主が用いてくださるのです。私たちの祈りは、「私の人生を用いて下さって感謝します」の一言に尽きます。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いを、キリスト・イエスにあって守るように。
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2010/12/12(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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