津田沼教会 牧師のメッセージ
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「次の世の復活にふさわしい者たち」
ルカ20:27-40、マラキ3:19-20、ルカ20:27-40、2010・11・14、聖霊降臨後第25主日(典礼色―緑―)

ルカによる福音書20:27-40
 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することはモーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。





説教「次の世の復活にふさわしい者たち」(ルカ20:27-40)

 先週は、全聖徒主日を守り、本日は、聖霊降臨後第25主日であり、来週で聖霊降臨後最終主日を迎えて、今年度の教会歴の一年が終わります。今の時期、11月は伝統的に死者を覚える時期として、教会では守られてきました。私たちは、この一年をルカ福音書を中心として学び、それは、エルサレムへの旅の途上の出来事として大半が語られてきましたが、本日の記事ルカ20:27-40は、気付いてみますと既に、エルサレムに入られてから、主イエスがお語りになったエピソードであります。
 ルカ福音書、本日の出来事を思い起こしてみますと、次のようなものでありました。サドカイ派のある者たちがやって来て、彼らは、復活は存在しないと反対して語る者たちでしたが、主イエスに質問したのであります。先生よ、モーセは、もし、だれかが、女を受け取って、子がないまま、死んだなら、その兄弟が、その女を受け取って、種を起こすようにと。ところで、ここに7人の兄弟がいました。その第一の者は女と結婚し、子がなくして、死に、第二の者も、第三の者も、子がないままにしに、第7の者まで同じようにして死にました。最後に、その妻も、死にました。復活の時、その女は、それでは、誰の妻に成るのですかと。一妻多夫制を認めているようでありますけれども、実はこれは、レビラート婚として、ある人の財産を跡継ぎに継承させるために、モーセ五書の創世記やルツ記などで認められているものでした。
 サドカイ派は、復活も、霊も、天使も存在していないと考えていました。それに対して、ファリサイ派はそのいずれもが存在すると考えるようになっていました。主イエスは、どちらかと言えば、この点ではファリサイ派に近かったのであります。
 主は、同じモーセ五書から取って、モーセも柴の書において、すなわち、出エジプト記の最初のほうで、復活を啓示していたではないかと言われます。すなわち、モーセが、主なる神を父アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と語っている通りであると。
 モーセが主なる神に出会ったときには、父祖たちは、肉体上は、既に過去の人であり、死んでいた人たちであります。しかし、モーセは、今も彼らの神であると語っているのであります。アブラハムたち、父祖たちを守り導いた主なる神は、生前と同じように、死の棘からも彼らを守り導き、彼らは、死をも超克して生きており、そして、その子孫たちも、今も神は、死からも死人からの復活へと守り導いてくださっていると言われるのであります。
 そして主イエスは、この世の子らは、結婚したり、とついだりしているが、次の世を得るのに、ふさわしく、また、死人からの復活に、ふさわしいとされた者たちは、天使たちのようになり、もはや、死ぬことはできないし、結婚したり、嫁いだりすることもないと言われます。そして、なぜならば、神は、死んだ者たちのかみではなく、生きている者たちの神であり、なぜならば、全ての者たちは、彼でもって、すなわち、神に対して生きているからであるとお語りになられるのであります。
 私たちは、死によってすべてが終わるのではありません。そして、それは、霊肉二元論でもありません。すなわち、肉体は滅んでも、霊魂は不滅であるというのではありません。死人からの復活があると言われるのであります。
 この後、主イエスは、十字架で死を遂げ、三日後に復活させられます。そして、私たちも、復活の子として、神の子になるのであります。
 ルカのイエスは、すべての人が復活するとは言いません。次の世を得るのにふさわしい者たち、死人からの復活にふさわしい者たちが復活するというのです。
 私たちは、このところ、津田沼教会では兄弟姉妹がたを天に送るという経験に遭遇しています。骨壷におさめられる遺骨をみて、生前の故人をしのび、いたたまれない気持ちになります。
 しかし、主が、その十字架の死を通して、本日のお言葉の通り、死で終わりではなく、死人からの復活、新たな生命があることを教えて下さっています。
 私たちは、絶望しないで、主の約束、主のお言葉に信頼していきましょう。
 祈ります。
天の父なる神よ。
 あなたは、私たちに生命を与え、また、平等に、死をも与えられました。しかし、私たちは、地上の生命で終わりではなく、次の世での生命を、主ご自身が語ってくださったお言葉を通して約束なさいました。私たちは、御前に罪を犯しやすい存在ですが、お言葉にすがって、次の世を得るのにふさわしい、また、死人からの復活にふさわしい神の子らとして守り導いてください。私たちはそれぞれに多くの弱さをも抱えていますが、どうか、1週間1週間を、主のお言葉に頼って歩む民としてください。キリストによって祈ります。
アーメン。



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2010/11/14(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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