津田沼教会 牧師のメッセージ
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「天の国という宝を求めて」(マタイ13:44~52)
マタイ13:44-52、2005・08・14、聖霊降臨後第13主日
列王記上3:4-15、ローマ8:31-39

マタイ福音書13:44~52

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

説教「天の国という宝を求1めて」(マタイ13:44~52)
 
聖霊降臨後第13主日を迎えました。私たちは今年は、マタイ福音書を主たる福音書として、マタイの記事から、学んでいます。本日の箇所マタイ13:44-52は、マタイ福音書にしか出てこない記事であります。このお盆を前にしました時期に、私たちは、親戚、親兄弟などに出会うことも多い時期でありますが、そういった人々と親密に交わるときに、あらためて、主イエスが語った天の国とは、どういうものであるかを考えることは、意義のあることであろうと思います。主イエスは、本日の箇所でまずこう言われます。「天の国は畑に隠されている宝と同質的である、すなわち、ある人がそれを見つけた後、隠して、彼は喜んで出て行き、自分のすべての持ち物を売って、それを買うのである」と。
その畑の持ち主はどういう地位にあったのか、この宝を見つけた人は、不道徳あるいは不法なことをしているのではないか。しかし、そういう背景となる事情については、主イエスは何も言われていません。主イエスの譬え話し、中でも特に天の国の譬えは「到来」、「逆転」、そして「活動」の3つに分けられると考えた学者がいます。この「畑の中の宝」という第一の天の国のたとえは、天の国の到来あるいは、そこで起こる逆転、さらには、この畑を買うという活動も意味されていると考えられるでしょう。
天の国、すなわち神の支配というものは、まずは、私たちの目から、隠されているものだということが分かります。私たちに、天の国は、接近し、あるいは既に与えられているのですが、多くの人の目からは隠されていて、気づかないのです。天の国は、主イエスと共に到来しました。しかし、2000年近くも隔てた今も尚、多くの人々の目には隠されているのであります。しかし、それを見つけた人は、それを得るために、自分のほかのすべてのものを売り払ってでも、喜んで得ようとするものなのであります。
第二の譬えはこう言われます。「また、天の国は、次のような商人の人と同質的である、たとえられる。その人は、良い真珠を求めていたのだが、非常に価値の高い真珠を見た後、出て行って、自分の品物全部を売り払った、そしてそれを買ったのである」と。
天の国は、この真珠商人のように、一つのすばらしく価値のあるものを得るためには、必要なあらゆることを行うことが要求されてくるものであります。神の支配を私たち自身のうちにもたらすためには、世界で最も高価な、今の時代で言えば、ダイヤモンドにもあたるようなものであった真珠を得るために、この商人は何も厭わないで、必要なことをことごとくやったのであります。
「また、天の国は、引き網と同質的である、彼らはそれを海に、あるいはガリラヤ弧に投じた、そして、そのいっぱいになった網を猟師たちは、岸辺へと引いてきて、腰を下ろし、良い魚は器に入れ、悪いもの、無価値なものは、外へと投げ捨てた」というのであります。
これは、最後の審判における裁きを意味しています。主イエスは「終りのとき、すなわち、完成の時においても、その譬えのようであろう。すなわち、天使たちがやってきて、正しい者たちの只中にいる悪い者たちを外へと取り出し、火の燃え盛る炉の中へと、えり分けるであろう。そこには、泣き喚きと歯の歯軋りする音があるであろう」と悪い者たち、すなわち、天の国を、また主イエスを、信じなかった者たちの終りの日の定めを説いて、主は私たち弟子たちに警戒するよう戒めておられるのであります。
そして、最後の13章の51節と52節は、「あなたがたはこれらのことがみな分かったか」と弟子たちに言われるのであります。「これらのこと」というのは、13章の始めから語られた譬えのすべてを指しています。彼らは「はい」と答えます。マタイ福音書の弟子たちは、主イエスの言われることを、理解することができる弟子たちであります。マルコでは、弟子たちは主イエスの言われることが生前分からず、躓いてばかりいるのでありますが、マタイの福音書の弟子たちは、主イエスの真意を理解できるということが大きな特徴になっています。
そして、主は言われました。「天の国の真実に対して、同質的なのは、これらのことを学んだ学者たちであり、その者たちとは、一家の主人に譬えられ、その主人とは、自分の蔵から、新しいものどもと、古いものどもとを自由自在に、おそらく客のために取り出すことができるのである」と主は本日の箇所で最後に言われました。
新しいものが先に書かれているのは、新しい教え、すなわち例えば新約の教えが優先的に考えられており、古いものどもとは、旧約の教えが考えられているとも言えましょう。マタイ自身が、新しい福音のことを学んだ学者でありました。あるいはこの一家の主人とは主イエスご自身のことでもあると言えましょう。
確かに私たち信者のすべての者が聖書の学者ではありませんが、主イエスのお言葉を通して、またそれを説く牧師の説教の働きや信仰の先輩の日常の証しなどを通して、私たちは天の国という得がたい、貴重な宝を見つけ出し、自分のものにしていくことができるのであります。それをまた、この日から新たに求め続けていきましょう。
祈りましょう。
天の恵み深い父なる神さま。
私たちは、思い通りには生活も進まず、罪を繰り返す弱さを持っていますが、天の国、神の支配という宝を既に一人ひとりが見出しているものであります。どうか、主イエスのお言葉を通して、日々悔い改めながら、この宝を見失うことなく、一生を進んでいくことができるように励まし導いてください。キリストによって祈ります。アーメン。



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2005/08/14(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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