津田沼教会 牧師のメッセージ
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「憐れみを乞う祈り」(ルカ18:9~14)
申命記10:12-22、テモテへの手紙二4:6-18、ルカによる福音書18:9-14、2010・10・24、聖霊降臨後第22主日(典礼色―緑―)

ルカによる福音書18:9-14
 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」




説教「憐れみを乞う祈り」(ルカ18:9~14)
先週は、「やもめと裁判官」の譬えを通して、気落ちせず絶えず神に祈り続けよとの主イエスの弟子たちに語られたお言葉でした。本日は、それに続く主のなさった譬えで神に「憐れみを乞う祈り」と題を付けておきました。
さて、私はその日の日課・福音のテーマが分かりにくいとき、「主日の祈り」を取り出してみることにしています。本日の主日の祈りは、「主よ、み民の罪を赦してください。私たちが弱く、悪へと誘われるとき、闇の支配をみ力で砕いてください」というものです。
本日は、「自分自身に信頼を置いて、自分は正しい、そして他の残りの者たちを軽蔑する者たちに向かっても、主イエスは譬えをおっしゃられた」と、もとの文は始まっています。 
「二人の人が祈るために神殿に上った、一人は、ファリサイ派、もう一人は徴税人であった」と主は語り始めます。ルカによる福音書は、15章の「放蕩息子の譬え」でも分かりますように、落ちぶれた者、罪に迷い込んだ者に対して、神がそれを拾い上げられる、憐れまれるという特徴が顕著であります。
徴税人は当時、罪人の代表のように言われていました。それに対して本日のファリサイ派は、神殿に立った後、自分自身に向かってこう祈るのであります。
「神よ、私はあなたに感謝します、私が他の者たちすべての者たちのように奪い取る者、不正をなす者、姦淫を行う者、また、この徴税人のような者でないことを」と。十戒に反することを自分はしていないと自慢するのであります。さらに、彼は続けます。「私は、週に二度断食し、すべての得るものの十分の一を献げています」と。
それは、彼の得るものの十分の一であって、彼の資本そのもののではないのであります。しかし、断食も、本来は一年に大贖罪日に一度守るべきことが旧約聖書・モーセ五書では決まっていました。しかし、その後、ユダヤ民族への災難などを覚えて、後には断食日が更に生まれるようになっていきました。個人としては、月曜日と木曜日に断食が守られるようになっていましたが、それを守ることは、本来の義務以上のことを守っているので、神からご好意をうけるのは当然とばかり祈ったのであります。
特に午前9時と午後3時に祈りの時間が示されていましたので、その時刻に二人は、あたかも示し合わせたように神殿に上っていったのかもしれません。とにかく、このファリサイ派は律法が要求している以上に義務をはるかに超えて行っていると神に感謝するのでありますが、それによって、神さまに義とされることを要求しているかのようであります。 
ところが、もう一方の徴税人はといえば、彼は両眼を天へ上げようともせず、うつむいて、手もあげず、胸を打ちたたきながら祈るのであります。
「神よ、罪人である私を憐れんで下さい」と。この「憐れむ」と訳されている言葉は、新約聖書に二個所しか出てこない言葉で、「罪を取り消して下さい」というふうな強い意味であります。「キリエ、エレーソン」、「主よ、憐れんでください」と我々が式文で祈る以上の強い意味の言葉が使われています。
この徴税人は、「私の罪を赦して下さい」と、肩を落として、半ば絶望的に祈るのであります。ところが、主イエスは言われます。「あなた方に私は語る、義とされてその家に帰ったのは、この者であって、あの者に対してではない」と。
自分の功績や人格を誇る者が神の目に正しいとされるのではありません。この徴税人は、自分の罪が赦されて、神に義とされて、帰って行ったことを、自らは知らなかったかもしれません。私たちの礼拝も、この徴税人の祈りのようにして、守られるべきものであります。
そして、主は「なぜなら、すべて自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高められるであろうから」と神による逆転を警告されるのです。私たちも、礼拝に来て懺悔をして、義とされて、新しい1週間に帰っていく、そのような一人一人でありたいものです。
 
私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって栄光が世々限りなくありますように。アーメン。



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2010/10/24(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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