津田沼教会 牧師のメッセージ
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「粘り強い祈り」(ルカ18:1~8)内海望牧師
創世記32:23-31、テモテへの手紙二3:14-4:5、ルカによる福音書18:1-8、2010・10・17、聖霊降臨後第21主日(典礼色―緑―)

ルカによる福音書18:1-8
 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守って下さい』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすに違いない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」



説教「粘り強い祈り」(ルカ18:1-8)内海望牧師

 イエスさまのたとえの中には、近隣で起こった出来事を題材にしたものがあります。今日の個所も、おそらくその一つでしょう。この悪名高い裁判官とやもめのやりとりは近隣の話題になっていたと考えられます。
 このたとえを通して、イエスさまは祈ることの大切さと、祈ることの意味をお話になっているのです。具体的には、「気を落とさずに絶えず祈ること」をお話になっているのです。
 まず何よりも大切なことは、イエスさまは、マタイによると、「こう祈りなさい」と祈ることを命じていらっしゃるということです。確かに、ルカ福音書では、人々が「どう祈るか教えてください」とイエスさまにお願いしたことになっていますが、イエスさまが「祈れ」と命じられたことは間違いありません。祈りたい時に祈るということではないのです。人は「絶えず」、常に祈る必要があるとおっしゃるのです。
 このたとえに出てくるやもめが何を願ったか具体的には書かれておりません。しかし、「やもめ」という彼女の境遇から考えれば「生活を守ってください」という意味でしょう。財産のことかもしれません。自分の人生を左右する事柄がかかってくるので、こんなに懸命に訴えたのです。 
 このようなとき、私たちも熱心に祈ることでしょう。空腹のとき、病に苦しんでいるとき、私たちは一所懸命祈ります。しかし、私たちは、なんとか自分で生きていけるときには祈りを忘れます。神さまなしにでも生きていけると思うのです。「霊的な飢餓感」というものは気付かずに過ごすことができるのです。そのような時こそ、人間の生き方として最も危険な時なのです。ですから、「祈れ」とイエスさまは命じられるのです。「君は祈る必要がある」とおっしゃるのです。確かに、私たちは自分たちの心に、日々新鮮な空気を送り込む必要があります。神さまから離れると、私たちは簡単に利己的な生き方、自己中心的な生き方に陥り、罪に汚染された心になってしまうのです。祈りは、信仰者にとって、新しい命の空気を心いっぱいに吸い込む「深呼吸」なのです。「原罪は、ひげのように毎日伸びてくるから、毎日剃り落とさなければならない」とルターは言いました。確かにそうです。その意味で、「絶えず」祈る必要があります。そして、祈りの最初に必ず「悔い改め」が来ます。そして「赦し」の喜びの中で、新しくされるのです。

 ところで、そもそも「祈る」とはどういうことでしょうか。それは「神さまとの対話」です。単なる祈願ではありません。祈願というものは、自分にとって益となるものを神さまにぶっつけるだけです。「当たるも八卦」といういい加減さがあります。そこには「信頼」がありません。神さまと話し合う姿勢には、信頼が必要です。対話とは、そのような姿勢です。「神さまは私の祈りを必ず聞き届けてくださる」という信頼のうちに神さまと話し合うのです。もちろん、「聞き届けてくださる」ということは、必ずしも「願いを叶えてくださる」ということとは限りません。私たちもただ自分の利益のみを求める祈りをすることがあります。しかし、心から信頼する神さまとの対話の中で、自分の祈りが訂正されることもよくあるのです。「必ず聞き届けてくださる」という信頼は、必ず私たちの心を和らげます。決して気を落とすこと、絶望することはありません。まさに「心の深呼吸」です。
 しかし、どうしても神さまのみ心がわからない時もあるのです。そのとき、今日のたとえのやもめ、あるいは、創世記のヤコブの姿勢が大切になります。「粘り強い祈り」と説教題をつけましたが、これは、「格闘的な祈り」と言い換えてもよいでしょう。
 私たちは、このやもめの裁判官にうるさがれても、執拗に願い続けました、この姿勢を学ばなければなりません。ヤコブは一晩中、神さまと格闘しました。ヤコブは「祝福して下さるまでは離しません」と言って必死にしがみ続けたのです。祈りには、穏やかな喜びの対話もありますが、このような格闘的な対話もあるのです。イエスさまのゲッセマネの祈りは、最も痛ましい格闘的な祈りだと言うことができます。「アッバ、父よ、この杯を私から取りのけてください」というイエスさまの祈りには心打たれます。
 愛する者の死ほど辛い経験はありません。あるいは、無垢の子どもの死はどうしても理解できません。私たちの心には、解決されない痛みが数多くあります。簡単に「これが主のみ心です」と言ってしまうのは、痛みを負う人々への裏切りであり、精神的怠惰です。実は、この「粘り強い祈り」「格闘的な祈り」が少なくなっているのが心配です。物分かりがよいようで、結局は「神さまへの本当の信頼」が欠けているのではないでしょうか。解決できないままで、しかし、ヤコブのように「離しません」と神さまと取っ組み合いながら祈り続けるという姿勢が大切です。
 イエスさまは、このたとえの裁判官ややもめをほめていらっしゃるわけではありません。
しかし、粘り強く祈る姿勢は学ぶべきだとおっしゃっているのです。
 ところで、今日の日課には、見逃すことのできない一節があります。それは、8節です。イエスさまは「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」とおっしゃいました。イエスさまは、この直前に「終わりの時」について語っておられます。「人の子が来るとき」というのは、終末の時を指します。ところが、「その時、地上に信仰を見ることができるだろうか」とため息をついていらっしゃるのです。ここに、すべての町々、村々を廻り、はらわたがちぎれるほどの思いをもって、福音を語り、病や患いを癒して歩かれたイエスさまですが、今、人々の無理解に心痛めていらっしゃるのです。「果たして地上に信仰を見いだすだろうか」という言葉には、深い悲しみがこめられています。
 私たちの信仰も、このイエスさまが出会った群衆と変わりません。自分の都合で祈り、ある時は神さまからも離れて平気な私たちです。罪人としか言えない私たちなのです。祈る資格など全くありません。イエスさまを悲しませている一人なのです。それでも、そのような私たちに、イエスさまは「祈れ」と命じてくださっているのです。祈ることを許してくださっているのです。これは何を意味するのでしょうか。
 イエスさまは今、顔をしっかりとエルサレムに向けて歩んでいらっしゃいます。十字架への道を歩んでいらっしゃるのです。このイエスさまの十字架によって、この世界に大いなる転換が起こっているのです。この世では、「罪と罰」、因果応報というのが当然の筋道です。祈らない者、罪人には罰です。しかし、イエスさまの愛は罪人にまで注がれているのです。「一人も滅びない」ことこそ、イエスさまの祈りなのです。そのために、イエスさまは、ゲッセマネの園で「この杯を取りのけてください」というあの血のにじむような祈りに続けて、「み心が行われますように」と祈ってくださったのです。このイエスさまの祈りに支えられて、私たちは罪人であるのに、祈ることを許されているのです。イエスさまの十字架によって神さまと私たち罪人の間に橋がかけられたのです。ですから、私たちは「イエス・キリストの御名によって、」祈るのです。ルターは、「神さまは罪人の敵ではなく、不信仰者の敵である」と語りました。罪人であることにひるんで祈らないのでなく、イエス・キリストの十字架の愛に信頼して、大胆に、主を信頼し、喜びと感謝をもって絶え間なく、粘り強く祈り続ける者になりましょう。
 祈りは深呼吸です。神さまと話し合えるということは信仰者に与えられ、何にも代えがたい大きな恵みです。しっかりと主の愛を心いっぱい吸い込んで日々新しく生きていきましょう。アーメン。

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