津田沼教会 牧師のメッセージ
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「信仰の生む実」(ルカ17:11~19)
列王記下5:1-14、テモテへの手紙二2:8-13、ルカによる福音書17:11-19、2010・10・10、聖霊降臨後第20主日(典礼色―緑―)

ルカによる福音書17:11-19
 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」



説教「信仰の生む実」(ルカ17:11-19)
 
十字架に向かうエルサレムに向けての主イエスの旅もだいぶ終りに近づいてきました。本日の個所ルカ17:11-19は、「エルサレムに向かって進むにおいて、起こったことには、主イエスはサマリアとガリラヤの真ん中を通っていた」と始まります。ルカは、エルサレムから見てその近い順、サマリア、ガリラヤと考えて書いたのでしょうか。その途上で、主のことを伝え聞いていたであろう重い皮膚病の男たち10人がやって来て、遠くから、叫ぶのであります。「イエスよ、先生、私たちを憐れんで下さい。」
この病気は、らい病であったかもしれません。人々から疎外されて、隔絶された社会の外に、彼らは置かれていたのであります。病気は、何であれ、苦しいものでありますが、当時は不治の病と思われたものであり、それを彼らは、「憐れんで下さい」と、遠くから大きな声を上げたのであります。難病はつらいものであります。
私たちは、ともすると、風邪をひいた位でも弱気になり、時として相当こたえるものでありますが、彼ら10人のそれまでの苦しみはいかばかりであったことでしょうか。
しかし、この「主よ、私たちを憐れんで下さい」(キリエ・エレーソン)と言う彼らの叫び声はまた、私たちが、毎週礼拝に来る上での叫び声でもあります。
さて、主は、それに対して、彼らに、「行って、祭司たちに自分の体を見せなさい」と言われます。すると彼らは、歩み出します。彼らは皆、主イエスに対して、信仰を持つという第一段階のテストには合格した者たちであります。そして、歩む間に彼らは、皆、「清められた」のであります。そして、自分が「癒された」ことを知った一人は、大声を上げ神をあがめ、すぐに引き返して来て、主の足もとに顔をつけ、感謝を示したのであります。 
主は、「清められたのは10人であったのではないか。他の9人はどこに」、と尋ねられます。そして、「神に栄光を与えるために、引き返してきたのは、この外国人以外には見いだされなかったのか」と問われます。
そして、「あなたの信仰があなたを救ったのだ。起き上がって進んで行きなさい」と彼を励まし、行かせるのであります。「体が清められると」いうことと、救いに与るということは、また、別問題であります。体が清められ、病気が治るということは、だれしもが望むことでありますが、その人が、真の意味で癒されて、神の救いに与り、永遠の命を与えられるということは、それとは比べものにならないはるかに大きな神の恵みであります。
私たちの功績、人格や業績によって救われるのではなく、神の救いという恵みに応答して、感謝を表した本日のサマリア人は、私たち信仰者のモデル、模範であります。そして、主は、残りの9人も真の救いに与ることを今もお待ちになっておられる方であります。
私たちは、どんなに剛健だった人も、やがては、体も衰え、病弱となって地上の生涯を終えて行くのが普通であります。しかし、そのような私たちの現実を主イエスと父なる神は、よくご存じであります。私たちは、主が与えてくださる真の癒しに対して、本日のサマリア人のように、与えられた信仰の実として、喜びを主のもとに引き返して、感謝を主に申し上げる生涯を送りたいものであります。
私たち人間の一生は、例えば、毎日、一円ずつ貯めても、現在日本では特に長寿社会になってきたとはいうものの、神の目から見れば束の間で、生涯で計算しても三万円にも届かないような、はかない短いものであります。
本日の記事を読みますと、私は牧師になる前の数カ月の間、経験した東村山市にあります全生園でのらいの患者さんたちのもとに、3名ほどで週に1回ずつ通った臨床牧会訓練のことを思い出します。当時850人ほどいた患者さんたちの中には青年の方もおられました。その青年は、もう壮年という年齢だったでしょうか、今から、牧師として社会に出て行く私たちに、「娑婆に出て今から活躍できるあなた方がうらやましいです。私の分まで頑張って下さい」と私たちを逆に激励してくれました。もう15年以上もあれから経ちます。
私たちは、本日の主のもとにただ一人、戻って来たサマリア人のように、主の奇跡・救いに対して、無感覚になるのではなく、絶えず応答していく一生でありたいものであります。地味でもいいから、主から、「あなたの信仰があなたを救った」と言われる信仰の実を生む生活を1週間1週間歩んでいきたい者であります。

望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みにあふれさせてくださるように。アーメン。
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2010/10/10(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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