津田沼教会 牧師のメッセージ
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「仕える喜び」(ルカ17:1~10)
ハバクク書2:1-4、テモテへの手紙二1:3-14、ルカによる福音書17:1-10
2010・10・03、聖霊降臨後第19主日(典礼色―緑―)

ルカによる福音書17:1-10
 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」




説教「仕える喜び」(ルカ17:1~10)
本日与えられている福音、ルカ17:1-10は、一読すると、4つの部分に分けられるようです。
まず、17:1-2節です。そして、第2の部分は17:3-4です。第3の部分は、17:5-6です。そして第4の部分は残りの17:7-10です。
 第1の部分では、「躓き、すなわち、背教、棄教の誘惑がやって来ないことは、不可能である」、と主は弟子たちに語り始めます。「しかし、その者を通して、躓きがやって来るその者は災いであるよ」と言われるのです。これは、裏切り者のイスカリオテのユダをも暗示していたかもしれません。主は、「その者にとって利点があるのは、首のまわりに、石臼をかけられて、海へと投げられることである。」これらの小さな者の一人が躓き、せっかく、主イエスに対して信仰を持っていたのに、それを捨てることになるよりは、と言われるのです。そして、本日の部分は、単なる主イエスの関連のない語られた教えを寄せ集めたのに過ぎないということではないのです。
 これは、弟子たちに、また、使徒たちに、総じて、教会のリーダーたちに向けて語られたお言葉を、訓戒の意味で、ここに、おそらく、ルカによって、まとめられている言葉なのです。
 第2の部分では、赦しの問題が取り上げられています。「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、彼を非難しなさいとあります。彼が悔い改めたなら、あなたは、彼を赦すであろう。また、一日に七回あなたに対して罪を犯し、七回あなたに向かってこう言って帰ってきたら、すなわち、私は悔い改めます、心を入れ替えますと言ってきたら、あなたは赦し、罪を帳消しにするであろう」、と主は徹底的な罪の赦しの必要を指摘なさっています。
 しかし、限りなく、私たちに罪を犯す者を、私たちは限りなく赦すことは不可能に近いでしょう。
それで、第3に、使徒たちは、「主よ、私たちに信仰を増し加えてください」とお願いせざるを得ないのです。
 主は、「あなたがたが、芥子の粒ほどの信仰を持っていたら、桑の木に、あるいは、いちじく桑の木に、お前は、根元から引き抜かれて、海に植られよと言ったならば、それは、あなたに聞き従うであろう」、と言われるのであります。
 信仰は、神さまからの贈り物であります。神は無償で、信仰を私たちに与えてくださるのであります。そのとき、神の力によって、ようやく、私たちに犯す兄弟の罪を限りなく赦すことが可能になるのであります。神からの贈り物によって初めて私たちは、兄弟の罪をどこまでも赦すことが可能となる奇跡が起こるのであります。
 第4の部分17:7-10は、神と私たちの関係をたとえたものであります。「もし、あなた方のうちに畑で耕す、あるいは、野で羊を飼う僕がいたなら、野から帰って来た時、主人は、あなたは、行って横になり食事をするように言うだろうか。そうではなく、まず、私が食べる者を用意して、腰に帯をしめ、私が飲み食いする間、給仕をしてくれ。その後で、あなたは、飲み食いするであろうと言うのではないか。あなた方も同じであり、あなた方に命じられていることを行ったとき、私たちは、ふつつかな僕です、なすべく義務があることを私たちは、やったにすぎませんとあなた方は言いなさい」と、主は、特に、教会のリーダーとなるべき人々に、本日のお言葉を語られたのであります。
 私たちは、神さまによって選ばれて、教会につながっている者たちであります。どこまでも、神さまに仕え、また、信仰の浅い人、小さい信仰の人にも、仕え、それを喜びとする者になりたいと思います。
 神さまが、み子を通して、私たちを主イエスの弟子として、また、父なる神の僕として、選んでくださって、私たちは今日あるを得ているのであります。私たちに罪を犯す兄弟に対しても、どこまでも赦し、神さまの全能の力によって、恵みと憐れみのうちに、やがて、天の栄光に与る者とされたいものであります。

 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
 

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2010/10/03(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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