津田沼教会 牧師のメッセージ
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「怒りのこぶしをおろして」(ミカ書4:1~5)
ミカ書4:1~5、2005・08・07、平和主日(赤)
エフェソの信徒への手紙2:13~18、ヨハネ福音書15:9~12

ミカ書4:1~5
終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。
もろもろの民は大河のようにそこに向かい
多くの国々が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
主は多くの民の争いを裁き
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。

人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
いちじくの木の下に座り
脅かすものは何もないと
万軍の主の口が語られた。
どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。
我々は、とこしえに
我らの神、主の御名によって歩む。


説教「怒りのこぶしをおろして」中川俊介牧師

 誰もが平和を願っています。しかし、誰もが平和を享受しているわけではありません。今年は第二次世界大戦終結後60年ということで、平和の事が考えられています。歴史を見ますと、1900年から1950年までの50年で4千万人の方が戦争で亡くなり、大きな戦争がなくなった1950年から2000年までの間でも3千万人以上が小さな戦争の犠牲者になっているそうです。ですから、私たちは60年という節目だけでなく、いつも平和のことを考えていく必要があると思います。特に聖書は、イエス・キリストを平和の使者として、今日の聖書日課でも教えています。

 平和運動を続ける人は、私たち一般の者と違って熱心です。イエスの弟子にも熱心党のシモンという人がいたと聖書にあります。もう亡くなった方ですが、長崎ルーテル教会の岡先生が平和問題に熱心でした。私も夏に岡先生の平和セミナーに参加したことがあります。もう20年以上も前の事ですから、覚えているのは本場の長崎チャンポンがおいしかったことくらいです。ただ一つだけ印象に残っていることがあります。ある入管法の戦いを続けてきた人が、熱心党であることの危険を述べていました。不利な立場に置かれた在日外国人に対する政府の役人の態度は、本当に冷たくて無慈悲なんですが、熱心な活動家は彼らを非難しがちであるし、最低の人間だと考えてしまう。すると相手もさらに態度を硬化させてしまう、というのです。だから、そんな場合でも、互いに弱い人間として認め合い、忍耐をもって訴え続けていくのが大切だと発言していました。確かに入管法問題ではこの方法が成功をおさめ、在日外国人の処遇もずいぶんと改善されたと聞いています。

 さて、私たちが平和を実現したいと思うときに、それはとても長い道程に思えます。ところが、聖書は十字架によって敵意は滅んだ、平和はすでに実現したと宣言しています。

 キリストの人生にも二度ほど敵意と向かいあう時がありました。ルカ9:54以下で、ヤコブとヨハネが天からの火でサマリヤ地方の不敬虔な人々を焼き殺してもらおうと、提案したとき。もう一つの場合は、ルカ22:49以下で、イエスが裏切られて捕まりそうになったとき、弟子たちが、主よ剣で切りつけましょうかと提案したとき。どちらの場合も相手が悪いのであって、イエスの側に落ち度はないのです。こちらが怒っても当然の場面です。しかし、イエス・キリストの答えは、「やめなさい」でした。熱心さは怒りを生み、怒りは憎しみに、憎しみは殺意にまで変わりうることを、イエスはよく知っていました。歴史はまさに繰り返しです。私たちもどこかで、こうした立場にたたされることがあります。それが試練です。心の中で相手を否定したくなる。「焼き殺してもらいたい」とさえ思う場合もないとは限らない。そして、その滅ぼしてしまいたい存在が、夫であり、妻であり、親であり子供であり、兄弟親戚であり、親しい友であるかも知れない。

 誰もが平和を願っているのに、結果は暴力と憎しみ。怒りのこぶしがどんどんつきあげられていく。私たちは思います。自分は悪くない、相手が悪いのだ。また、怒りに燃えるときに、私たちも熱心党になる危険をはらんでいます。あるいは、疑い深いトマスのように、冷たく、部外者のような立場を取る場合もあるかも知れません。

 どうしたらいいのでしょうか。聖書は答えをだしています。ヨハネ8:1以下で或る女が不倫の罪で捕縛されたとき、皆が怒りのこぶしをあげていた。しかし、イエスは説得しなかった。平和を説かなかった。許しさえ説かなかった。寛容な心を訴えなかった。理性に訴えるものは、この世の知恵だからです。人間という存在から出てくるものは、人間の根本問題を救うことはできない。ですから、イエスはこう答えた。誰でも自分が罪を犯したことのない者がまず、処刑の石を投げなさい。その時、一人また一人と、怒りのこぶしをおろしていきました。天からの啓示というのでしょうか、罪の自覚がうまれたのです。

 宗教改革者ルターは罪の自覚を生涯持ち続けたことで知られています。彼の偉大な点は、いや、神のルターにおける偉大な奇跡は、罪の自覚を信仰の根本にしたこと。自分が正しいと思っている人間ではなく、あるいは自分の力で平和が実現できると思っている人間ではなく、自分は徹底的に無力であること。怒りや憎しみの力、悪魔の誘惑に負けてしまうこと。神なしには生きられない存在であるという、そのハッキリした自覚というものがあったのです。

 ルターは1522年の説教で言っています。「人は自分には絶望し、神のみを信頼しなければいけない。つまり、自分のすべてをキリストに渡し、キリストを心から受け入れなければならない。そのことによって、キリストのもっているすべてがあなたのものとなり、あなたのすべてがキリストのものになる。このことによって、あなたは新しく生まれ変わる」。

 それは、今日の福音書にあるキリストの愛の発見ということです。「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」と書かれてある。キリストの喜びと平和がみなさんの喜びと平和になると宣言されている。これを信じたい。信じない者であり続け、苦しむ者としての生涯を選ぶのではなく、信じ、平和の人として新しく歩みたい。キリストの愛を信じて。

 では、なぜキリストを信じることで平和が実現するのか。それは今から2700年前に記された本日の日課であるミカ書にすでに預言されている。怒りの武器である剣が、平和の道具である鋤(すき)になる。キリストが到来されたことにより、また、その十字架の犠牲によって神が人を和解してくださった。この和解によって、神がキリストを信じる者をもはや決して裁かない。処罰することはない。この永遠の約束、永遠の契約が成立した。だから、今後、世や社会が裁くことはあっても神は裁かない。この和解は永遠であり無条件だからです。そうでなければ、私たちはいつも、神の機嫌をとろうとしてビクビクしていなければならない。

 このキリストの和解というのは、律法の廃棄ともいえます。ともすれば熱心党になりやすい私たちは、自分の立てた規則、戒律、こうであるべきだという律法によって、人を裁いてしまいます。キリストはそれに終止符をうたれた。「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」とエフェソ書にある通りです。キリストの贖いによって、キリストを信じる者は、神と和解し、律法の壁が消えたのです。神からも裁かれない、自分も裁かないという平和の境地に置かれるのです。そしてこの恵みを信じた者は、平和の使者とされる。人と人との間を隔てる律法の壁を取り除くことができる者として新しく創造される。それは、自分の力でなくキリストの十字架の和解を信じるすべての人に与えられている、恵みです。

 人間が考えついた事柄は人間とともに、時代とともに滅びる。しかし、神の与えたもう平和はこの世が奪うことも、取り去ることもできない。戦後60年。これからも、争いや戦争はあるでしょう。しかし、イエス・キリストは既に究極の平和をもたらしてくださっています。私たちは、この平和を信じていきたい。

 最後に一言。神の平和が訪れるとき、試練も起こります。この世に働く悪の力は、偽りの信仰や単なる形式の信仰は無視します。しかし真実の信仰が生まれるとき、それを見逃すことはできない。試みがきます。裏切り、憎しみ、事故、病気、挫折に巻き込まれるときがあります。しかし、それは、信仰者にとっては試練ではなく、己の弱さを知り、さらにキリストに結びつく機会であり、恵みの機会です。なにがあっても大丈夫。なにがあっても、キリストが共にいてくださることによって、すべては平和と喜びの機会となるでしょう。
 アーメン
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2005/08/07(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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