津田沼教会 牧師のメッセージ
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「かけがえのない一人一人」(ルカ15:1~10)徳善義和牧師
出エジプト記32:7-14、テモテヘ手紙1:12-17、ルカによる福音書15:1-10、2010・09・12、聖霊降臨後第16主日(典礼色―緑―)

ルカによる福音書15:1-10
 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」



説教「かけがえのない一人一人」(ルカ15:1~10)徳善義和牧師
 
 この譬え話を聞いたあの時代の人たちは、羊のどういう姿を思い浮かべただろう。なかなかこれは私たちに身に付かない。皆さん方も山羊と羊の区別が分かりますか。山羊は1匹でいる。群生しない。羊は群生で群れで生活する。これはやはり羊の性質を表わしている。私は、「ルターとバッハを訪ねる旅」をし、ドイツに旅行をしました。先生、もう一遍連れて行って下さいと。私はもう目が見えない。先生は見えなくてもいいと。先生は着いたところで、一言講釈してくださればいい。くどきおとされて、人を集めて出かけて行ったのですが、旅行している間に気がついたことがある。ドイツ語で通訳してくださいと。
 しかるべきところに行った時に、講釈する。私が人から遅れて迷子にならないためにしていたことは、前の人の靴を見落とさないようにして、歩いていくこと。ふと、気がついた。これが羊だ。羊はど近眼で、前の羊のかかとしか見えない。それを見失うと、迷子になる。聞き手の人たちはみんな、この事を知って、この話を聞いたことだろう。
言わば、羊の能力の中で、そうなることがある。そういう迷子の羊、という体験を、人々は皆知っていたはずです。その話を、イエスさまはここでしているのだ。
 私は、今日の体験、羊の体験、この旅行の体験で、前の人のかかとしか見えない。イエスさまのかかと、弟子たちのかかと、だけを見ながらでもあとをついていくものになりたいなあとそう思ったのですと、夜のスピーチで語りました。
 これが、ひとつ、わざとでなくても、こういう羊はできて来る。故意でなくても、銀貨一枚どこかに入り込むことは起こる。そういうことがここで、話題になっている。
 もうひとつ、頭に入れておきたいことは、イエスご自身がある。宣教を始めたとき、そして、次に9章の51節、エルサレムに行く決心をしたというところ、エルサレムに行くべく顔を向けた。これは、イエスの決心、覚悟をあらわす。お餞別、はなむけというのは、もともとは鼻を向けるのです。馬の鼻むけ、をして、旅に出る。
 今、旅行、海外旅行もそんなことはない。私は、初めてドイツの留学に出た。100人見送りに来る。お前は帰ってくる必要はないと、旅だった。もう水杯です。イエスさまは、エルサレムに行ってどういうことが待っているか、深い覚悟をもって旅だった。
 留学、死に物狂いでする。わきめもふらず。イエスはエルサレムに顔を向けた。わき目もふらず、旅の記録を19:27節まで、克明に、豊かに記録してくれた。
 しかし、その途上で、あの人に手を伸ばし、弟子たちにはのるかそるか、わからない。ぎりぎりのところで、わたしたちを必要としている人たちには全力で当たれ。時間を惜しまず、向き合って、この人々に顔を向けて、イエスさまは、一時を100パーセント投げ出して当たった。
 私たちに残された時間があるときはどうするか。最後の途上でだれとあるいているか。徴税人と罪人と過ごしている。つまはじきされている人、悪人、私たちはだれでも悪人になりうる。ここの人たちは、世の中まともに歩いているとは言えない人と共にいる。
 ファリサイ派や律法学者たち、分離派、そういう生活をしている。律法の規定に従って、税金を納め、毎日、律法、詩編を読んで悪いことをしない。イエスに批判を向ける。迷子の羊のさがから、迷子になるのは、悪い羊か。残りの群れは、ヒツジの番をする犬に見張らせていれば、99匹は何とか残って行く。1匹を連れ戻すのは、羊飼いの使命だ。
 主は私の羊飼い、そういう旧約の伝統にまでつながっている。見つけたらば大いに喜ぶ。迷子の羊を悪いと言っていない。人間もそうだ。罪人もたまたまそうなっている。残りの99人は正しい羊なのか。残った99匹は、野の一角に、かたまって一時をすごすものだ。いい奴と悪い奴を分けることはできない。クリスチャンはいい奴とは言えない。パウロは、罪人の頭だという。こういう様子が見えてくる。
 人間一人ひとりをも、かけがえのない人々だ。地を這いつくばっている人がだめなのではなく、そういう一人一人を見つけて帰って来るならば、本当に喜んでくださる。99匹も明日にも迷子になりうる。そういう一人一人をかけがえのない者だと思っている。
 ファリサイ派もまた、かけがえのない人。それぞれの道を歩いて、みんな迷っている。神さまの恵みをないがしろにするからやはり、迷っているのではないか。反対に、ファリサイ派自身が迷い出ている人ではないのか。その一人一人をも私は探し求めて行くのだ。ニコデモとか、パウロ自身が、律法学者、神に探し求められた人だと気付いた。悪そうな人もいるが、私たちみんな、迷子になって行く存在。そのために、イエスさまが私たちを探し出して、神のみ手のなかに入れられている。
 これからの人生、前の羊のかかとを見つめて歩む羊のように、イエスさまのかかと、弟子たちのかかとを見つけながら、歩いて行く。前のかかとを見つめて歩んでいく私でありたい。これが、アーメンと言わしめるところ。神の恵みの中に生きる命の日々のことを悟らせてくださいます。
 
天の神さま。あなたは今日も私たちにみ言葉を与えて下さいました。私たちがあなたに造られた一人の人間としてそれぞれ歩んでおりますが、その人間が歩むその歩み方もあなたに知らされた思いがします。それにもまして、このような私たち一人一人のために、これをかけがえもない者と思って、恵みと慈しみの注目を、続けてくださる神さまの憐れみが豊かにありますことも知らされて感謝をいたします。あなたのみ心に従って、み言葉に従って、歩みます私たちの人生の歩みを日々顧み、祝福し、導いて下さいますようにお願いをいたします。主のみ名によって祈ります。アーメン。
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2010/09/12(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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