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津田沼教会 牧師のメッセージ
「戸を叩かれるイエスさま」(ルカ13:22~30)内海望牧師
イザヤ書66:18-23、ヘブライ人への手紙12:18-29、ルカによる福音書13:22-30、2010・08・22、聖霊降臨後第13主日(典礼色―緑―)

ルカによる福音書13:22-30
イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」


説教「戸を叩くイエスさま」(ルカ13:22~30)内海望牧師

イエスさまは、私たちの「安心」を打ち砕く方です。今日の日課も典型的な一つです。
 「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」とある人が質問しました。この人は、自分の救いについて確信を持っている人物です。「安心」しているのです。何故なら、救いに値する業を立派に行っていると思っているからです。
 私たちは、ここで「自分を正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人」の姿を思い出します。ルカ18:9.ここで、イエスさまはたとえを用いて話されます。そして「『神さま。わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者でなく・・・でなく、この徴税人のような者でないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』」と祈る人の信仰的な傲慢を打ち砕かれます。
 イエスさまは、自分の行った業で救われると確信している人を断固として退けられるのです。何故なら、それは必ず他者を貶める生き方になるからです。信仰的傲慢ほど恐ろしいものはありません。
 「少ないですか」という質問に対して、イエスさまはたとえでお答えになりました。このたとえの中の主人は一見、非常に無情な人間のように感じられます。しかし、詳しく読んでみるといろいろなことが分かります。たとえば、「入ろうとしても、入れない人が多い。家の主人が立ち上がって戸を閉めてしまってからでは」という言葉は、神の国の宴会は神さまが招いて下さるのであって、そこに列席する権利を主張するなど全く出来ないことが分かります。当然です。
 「神の国に入りたい」という願いを持つことは大切です。しかし、問題は自分の行いを見せびらかしながら、扉をこじ開けようとすることです。26節をご覧ください。戸を叩いて「開けて下さい」と嘆願している人々は、みな権利を主張しているのです。「ご一緒に食事をしました。あなたの教えを受けました」という言葉一つ一つに、あのファリサイ派の人の「週に二度断食し、献金をしました」という言葉が響いて来るのです。「不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」という言葉は非情、残酷に聞こえます。しかし、「この徴税人のような者でないことを感謝します」という言葉の恐ろしさを考える時、主人が怒るのも無理はないと思います。そこには、思い上がった心しかなく、自分の不義に気づかず、悔い改めの心など微塵もない人間の姿が浮き彫りにされます。
 8月は「戦争と平和」について考える時です。私たちは、この戦争は「正義の戦い」であり、「聖戦」であると教えられてきました。悔い改めのない「正義の戦い」がどれほど残酷に人々を殺戮して来たかを考える時、宗教的確信の恐ろしさを感じます。
 イエスさまは、私たちの安心を打ち砕く方である、と述べましたが、「自分は天国に相応しい」と思い上がった信仰的確信はどうしても打ち砕かなければならないのです。これは、決して、見逃してはならない信仰の落とし穴であると言えましょう。
 私たちには、必ず天国に入れると安心できる「安全地帯」はないのです。
 それでは、一体だれが救われるのでしょうか。誰もいないのではないかという疑問がわきます。
今日の日課では「開けて下さい」と戸を叩く人々のことが述べられていますが、反対に「戸を叩くイエスさま」の姿がヨハネの黙示録に書かれています。5章3節です。ヨハネの黙示録は7つの教会に宛てられた手紙ですが、7つの教会のうち5つまでが激しく非難されています。最後のラオデキアの教会に至っては、神さまから「あなたを口から吐き出そうとしている」とまで言われています。しかし、その同じ手紙の終りに、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をするであろう。勝利を得る者を、わたしは自分の座に座らせよう。」と小羊イエスさまがおっしゃっているのです。イエスさまの戸を叩かれる音に気付く時、私たちはイエスさまと食卓を共にすることが出来るのです。
 イエスさまは、決して私たちを閉めだそうとしているのではなく、私たちを救おうとしていらっしゃるのです。今日の日課の最初にも「(イエスさまは)エルサレムへ向かって進んでおられた」と書かれています。イエスさまは、私たちの罪を贖うための十字架への道をまっすぐに歩み続けて下さっているのです。正直に言って、わたしたちは、イエスさまの前では、自分がファリサイ派の人々であることを告白しなければなりません。しかし、そのようなわたしたち罪人が一人も滅びないようにとイエスさまは十字架に死んで下さったのです。私たちは、ともすると自分で天国の戸をこじ開けようとして、イエスさまが戸を叩いてくださる音を聞き逃してしまっているかも知れません。
 ルターは、「自分の力で救われようと懸命に努力し、失敗し、自分が灰や塵であり、哀れな捨てられた罪人にほかならないと分かった時、神の助けが来る」と語っています。修道院で必死の努力をし、自分の力で何とか神の国へ入ろうとしていた時には、差し出された恵みに気づかなかったのです。しかし、自分が死すべき罪人に他ならないことを知り、心から悔い改めた時、イエスさまの十字架の愛に出会うことが出来たのです。天国を追い求めるということは大切です。しかし、そのために必要なのは、心から「信仰なきわたしを救ってください」という悔い改めの祈りなのです。18章の徴税人は、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神さま、罪人のわたしを憐れんで下さい」と。そこでこそ憐れみが見出されるのです。戸を叩いて下さる、共に食事をしようとして下さるイエスさまがいらっしゃることに気づくのです。
 そのような真実の悔い改めがなされるとき、あのラオデキアの教会も吹き出されることはないのです。初代教会といえども理想的な姿ではありませんでした。しかし、ヨハネは、これらの教会を「7つの金の燭台が見えた」と言っています。私たちの教会もそうです。私たちも、また私たちの教会も決して輝く金の燭台などではありません。しかし、イエスさまの愛が豊かに注がれることによってやはり金の燭台としてヨハネに紹介される群れなのです。
 今日の日課の終り、29節は雄大な絵画を見るような風景です。「人々が、東から西から、また南から北から来て、神の国の宴席に着く。」と描かれています。もはやユダヤ人、異邦人という区別もなくなり、全世界の人々が神の国の宴席へと招かれているのです。そのなかに、私たちの行いによってでもなく、ただイエスさまの十字架による招きにより、私たちもこの巡礼の群れに加わる喜びが与えられるのです。自分の行った良い業にではなく、イエスさまが戸を叩かれる音に耳をすませましょう。そして、罪人を招いて下さるイエスさまの恵みに信頼して、喜びの人生を、確かな足取りで歩みましょう。アーメン。
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2010/08/22(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)