津田沼教会 牧師のメッセージ
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「平和への道」(ルカ12:49~53)原拓也牧師
エレミヤ書23:23-29、ヘブライ人への手紙12:1-13、ルカによる福音書12:49-53、2010・08・15、聖霊降臨後第12主日(典礼色―緑―)

ルカによる福音書12:49~53
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
父は子と、子は父と、
母は娘と、娘は母と、
しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
対立して分かれる。」



説教「平和への道」(ルカ12:49~53)原拓也牧師
 
先日、7月11日の日課で、私たちはキリストが「天に上げられる時期が近づ」いたのを知って、「エルサレムへ向かう決意を固められた」ことを聞いたが、ある注解者はこの時、ルカ9:51以来、主の教えと働きの目的が「弟子たちの育成に向けられるようになった」と言っています。そういう視点でみると、この時以降主の教えに厳しい面が多く現れるようになってきているのを見ることができます。
今日の福音書のみ言葉は、信仰者にとって極めて厳しい教えであるが、主の昇天後、福音宣教の担い手となるべき弟子たちに、弟子としての心構えと姿勢を説いているものとして、聞くべき教えであります。
日課は、1、分裂をもたらす主のみ業、12:49~51節、2、分裂後の具体的な例示、12:52~53節と見ることができます。
今日は、12:49~51節から主の教えを聞きます。
この個所は、聖書の中でも理解するのが難しい個所の一つと言われている部分で、特に49節と50節以下をどのように結びつけて理解するのかによって、解釈が変わってくる所でありますが、今日は、50節の「しかし」という言葉から主の教えに入ってゆきたいのであります。その理由は、この小さな語がこの二つの部分を結び付けていると考えられるからであります。ちなみに、この語を抜いてこの個所を読んでみると、どうなるでしょうか。
50節の「しかし」の語は、どういう意味で49節と50節以下を結んでいるのか。いくつかの可能性を考えることが出来ますが、“時間的な意味=前後関係”と考えてみると、その意味は次のようになります。
 「・・・(あなたがたの中に)その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。しかし、(その前に)私には受けねばならない洗礼があります。・・・」
主には(これから)受けねばならない大きな苦しみと、洗礼がある。では、「洗礼」はどのように解釈できるでしょうか。主はすでに「罪の悔い改めのバプテスマ」をヨハネから受けておられる。また、「罪の赦しの洗礼」は、キリストによるものであるからまだ存在していません。
したがって、この「大きな苦しみ」はゲッセマネと、そこに至るまでの苦しみであり、「洗礼」は十字架、と解釈するのが普通であります。(ヨハネ福音書18:11、マタイ20:22~13、参照)
このように、キリストは弟子たちに、これから赴こうとしておられるエルサレムでの苦しみと死を語っていらっしゃいます。
「十字架」。それはそれを仰ぎ、それに触れる者に決断を促す神のみ業であります。百卒長は、「本当にこの人は神の子であった」と告白しました(マルコ15章)。十字架の罪人は、「あなたが神の国へ行かれたとき、わたしを思い出してください」と訴えました(ルカ23章)。
そして、主は今日、私たちに言われます。「あなたがたは、私を何者と言うのか」(ルカ9:20)と。これは、「あなたはわたしを誰と言うのか」という信仰告白への問いかけであります。
さて、12:51節ですが、人がこの決断(信仰告白)をなす時、そこに起きて来るのが分裂・争いであります。「平和・・・ではない・・・分裂だ」。
「平和」は、多くのところで、「神の平和・平和の神・キリストの平和」として、用いられている語であります。それに対して「分裂」は、「切り離す・切り分ける」の意でありますが、ここでは、「~の結果として分裂する、必然的にもたらされる分裂」という語が用いられていて、キリストに対する告白は、その必然的な結果として「すべての人を二つに、即ち、信仰を持つ人と持たない人に切り離す」事が言われています。
例えば、十字架上の二人の罪人、キリストの右と左に置かれているこの二人は、キリストを救い主と告白する者と、告白しない者として、全人類を代表しています。
この二人は、キリストとの関わりを別にすれば、まったく同じ罪人であります。ただ、キリストとどう関わるのかによって、その現在と未来のすべてが変わってきます。
さて、12:49節との関係ですが、この断絶・分裂が、人々のうちに火を燃え立たせます。「火」は、焚火の火や、わらを燃やす火などが普通の意味であります。さらに、清める火、さばきの火、地獄の永遠の火、滅びの火などの意味があります。ここでは、後者の象徴的意味で用いられています。
この炎は、信仰を告白していない人のうちにも、告白した人のうちにも燃える火でありますが、まず、信仰を告白しない人々のうちに燃える憎しみの炎は、「迫害・殺戮」という形で現れ、それに対して熱心が、信仰告白する人々のうちには愛の火が注がれて、「救霊の働き・人々の益のための 活動」という形で現れて来ます。主が今日の日課で語っておられるのは、この二番目の炎であります。
平和の主は今、裏切りと敵意と殺意に満ちたエルサレム(「平和の礎」の意味)へ、そして十字架へと向かっておられます。それは、十字架の死と復活の命によって、神と罪人との間に真の平和を回復し、人々の間に真の和解を実現するためであります。
そして、その事を通して、主はわたしたちの中にも「霊の火」すなわち、神の業への熱い心と人々の救いへの熱心が燃え上がるのを期待していらっしゃいます。
本日の旧約の日課、エレミヤ書23章にも警告されているように、「真の平和」は、耳触りのよい言葉やまやかしの教え、或いは自分を偽って生きる人々によってもたらされるものではなく、キリストが「平和を造り出す人は幸いである。その人は神の子と呼ばれる」と教えておられるように、罪の痛みや人間関係の重荷を担って生きてゆく、悩む神の子たちの日々の歩みの中から造り出されてくるものであります。
ルターが「神の戒めは、私たちを、私たちの隣人におもむかせ、・・・私たちをただ隣人の救いにのみ役立つものとならせる」と「善きわざについて」で言っているとおりであります。
「平和への道」。今日、8月15日は、65年前の敗戦の日であり、世界の平和を祈念する日です。今日、この日に、痛む心、熱い思いを抱きながら、“神との平和、人々との平和の道”を主と共に、そして主にある友と共に歩むものでありたいと願います。
ヘブライ人への手紙12:1~3をお読みして、終わりとしたいと思います。
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」
アーメン。


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2010/08/15(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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