津田沼教会 牧師のメッセージ
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「隣人とはだれか」(ルカ10:25~37)内海望牧師
ルカ10:25-37、2010・07・18、聖霊降臨日第8主日(典礼色―緑―)
申命記30:1-14、コロサイの信徒への手紙1:1-14

ルカによる福音書10:25-37
 
 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」


説教「隣人とはだれか」(ルカ10:25~37)内海望牧師
 
「善いサマリア人」という小見出しは一つの重要な視点ですが、今朝は違った観点から福音を聴き取りたいと思います。
 この律法の専門家のイエスさまへの質問は利己的です。何故なら、彼にとって「全身全霊を持って神さまを愛すること」も、「隣人を自分のように愛すること」も、結局は、自分が永遠の命を受け継ぐために行うという自分の利益につながっているからです。たとえ、どんなに努力しようとも、この律法学者にとって、その善い行いは、自分の利益のための取引材料に過ぎないのです。
 しかし、私たちはこの律法学者を笑うことは出来ません。私たちもイエスさまに同じ質問をするかもしれないからです。実は、この「行いによって義とされる」という「行為義認主義」ほど合理的で分かりやすい考え方はありません。「因果応報」という言葉があります。「悪いことをしたら悪い報いが返って来る」し、「善いことをしたら、善いことが返って来る」のです。「因果応報」とは、出来るだけ善いことをして、良い報いを得ようという考えです。
 このような律法学者の質問に対してイエスさまはたとえを持ってお答えになりました。 祭司とレビ人が強盗に襲われ、半死半生で横たわっているユダヤ人のそばを通ります。彼らは二人ともエルサレムの神殿に仕える信仰深い人たちでした。注意したいのは、彼らはこの強盗に襲われた人物を「見ている」のです。しかし、道の向こう側を通って行ってしまったのです。これに関してはいろいろな解説がなされます。しかし、ここで重要なのは、この二人が「見た」けれど、「旅人の苦しみが見えなかった」という事実です。故意に避けて通ったように書かれていますが、いくら何でも半死半生の旅人にぶつかったら手を貸すでしょう。そうしなかったのは、彼らには、この旅人の危急が見えなかったのです。どうしてでしょう。彼らも律法学者と同じ所に立っているのです。自分の救いのためにならないならば、点数に入らないならば、苦しんでいる人は目に入らないのです。
  私たち人間の心は、いつも自己中心であり、自分のことでいっぱいですから、自分に利益がないと目が行きません。自分自身が自己に縛り付けられているのです。心に自由がないのです。私たちの周囲には、大勢の「目に見えない人々」がいるのです。恐ろしいことです。

  聖書全体に流れるキーワード、あるいは通奏低音のようなものがいくつかあります。その一つは、「それは、あなただ。」という言葉です。あのダビデ王が、自分の横恋慕を通すために忠実な部下を戦場に追いやって殺してしまった時のことです。ダビデは自分が罪を犯したとは思っていませんでした。自分の念願がかなった喜びで、頭がいっぱいのダビデは、その行いの罪深さに気づいていませんでした。ですから、預言者ナタンが「たとえ」でダビデの行ったような罪を犯した人物について語ると、ダビデは「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ」と激怒します。その時、ナタンは「その男はあなただ。」と真っ向から指摘するのです(列王記下12章)。ダビデは肺腑をえぐられた思いでした。彼は自分の罪に愕然とし、心から悔い改めます。その時の悔い改めの言葉が詩編51編と言われます。この「その男はあなただ」という言葉は、ずっと聖書全体を通して響いているのです。私たちは、罪の女を見つけたら、真っ先に石を投げつけようとした群衆の一人かも知れません。あるいは、貧しい人を見下げて祈るファリサイ人と同じ態度を取っているかもしれません。私たちは、自分自身をあの祭司、レビ人であるとは思ってもみません。しかし、どうでしょうか。私たちの心を究められる神さまの前では、私たちが祭司であり、レビ人であること、石を投げるものであること、他人を見下げて暗い喜びに浸るファリサイ人であることが明らかにされるのではないでしょうか。
  バッハがマタイ受難曲で、イエスを裏切る者、「それは私だ!」とコラールで歌わせた罪認識を思い出します。
 サマリア人は自己から自由な人物でした。彼は、今そこで苦しんでいる人物が、自分たちサマリア人を軽蔑しているユダヤ人だとかどうかなど全然気にしていません。33節以下のサマリア人の行動が全く流れるようにスムースであることに気づかされます。時間を惜しむこともしませんし、自分も強盗に襲われる心配もしていません。そこに助けを必要としている人がいるからなすべき事柄(傷の手当て、ろばに乗せる、宿屋に連れて行き泊まり賃を支払う)を淡々と行っているだけです。その行動には、大きな自己否定あるいは沢山の金銭を置いて行くとかいう自己犠牲、大げさな所作もありません。例えば、「敵を愛せよ」という看板を掲げているわけではありません。
  しかし、彼は祭司やレビ人が見えなかった人が見えたのです。彼は、敵対するユダヤ人とサマリア人という図式から自由であったし、善いことをして永遠の命を得ようとかいう取引からも自由でした。
  では、このサマリア人とは誰のことを指すのでしょうか。驚くべきことに、ルターは「サマリア人はイエス・キリストだ」と言います。そして、旅人は「私」なのです。
  私たちは、イエスさまがこのたとえをなさっていることに目を向けなければなりません。先週、私たちは、イエスさまが改めて断固たる決意を持ってエルサレムに向かわれた姿を読みました。罪人を救うために十字架への道を一歩一歩んでいらっしゃるのです。
  その歩みは、イエスさまが私たち罪人の隣人になって下さるための道筋であったのです。
 「裏切る者、それは私だ」と言われなければならないような私。罪の赦しを必要としている私こそ助けを必要としている旅人なのです。この罪人である私を救うために、イエスさまはいま、エルサレムへの道、すなわち十字架への道を歩んで下さっているのです。パウロは「私たちが罪人であったとき、キリストが私たちのために死んで下さったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」と断言して憚りません。パウロは、自分は罪人の頭のような人間です、と告白しています。しかし、イエスさまが自分の隣人となって下さったことを断固として信じていました。更に「私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。」と高らかに勝利の歌をうたっているのです。私たちも、このパウロの讃美歌に声を合わせましょう。
  私たちは紛れもない罪人です。しかし、その罪人である私のためにまで命を捨てて下さるのがイエスさまの愛なのです。私たちが苦しみに打ちひしがれる時、屈みこんで、私の傷に油を注ぎ、包帯をし、いやして下さる方です。私たちが罪の深淵に落ち込み、自分勝手に生きている時でさえも、「父よ、彼らを赦して下さい」と祈り続けて下さる方なのです。イエス・キリストの十字架こそ救いの確かさのしるしなのです。大胆に罪を告白し、もっと大胆に罪人を愛して下さるキリストの愛を信じましょう。

  さて、ルターは続けます。「すべての人に対して憐れみ深いサマリア人イエスによって目を開かれ、自分自身に縛り付けられていた状態から解放され、心を解き放たれる人々がいる」と。イエスさまが、罪人である私のために隣人になって下さった、私のために命を捨てて下さった、このことを知った時、私たちには、今まで見えなかった人々が見えて来ます。痛みを負う隣人が目の前にいることに気づかされるのです。イエスさまが、私たちの隣人になって下さったことを知ることによって、私たちは生まれ変わることができるのです。愛の心が与えられるのです。
  パウロと共に、イエス・キリストにおける神さまの愛に生かされていることを喜び、新しい歩調で生きて行きましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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2010/07/18(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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