津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「苦しむメシア(キリスト)」(ルカ9:18~26)
ルカ9:18-26、2010・07・04、聖霊降臨日第6主日(典礼色―緑―)
ゼカリヤ書12:7-10、ガラテヤの信徒への手紙3:23-29

ルカによる福音書9:18~26
イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちも共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「洗礼者ヨハネだ」と言っています。ほかに、『エリヤだ』という人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。



説教「苦しむメシア(キリスト)」(ルカ9:18~26)

本日の主日の祈りには、私たち全世界から、あなたの民として、召し集められた者たちが「キリストこそ、私たちの主」と告白して、真にあなたの民に加えられるように導いてくださいというふうな祈りが載っていました。
 さて、ルカ福音書では、5千人への給食の出来事のすぐあとに、本日の記事が与えられています。私たちを、まことの糧で、満たしてくださるお方が、どのようなお方なのか、本日の記事は、記しているのであります。
今日の記事は、「そして、起こったことには、彼が独りで祈るということが、そして、弟子たちも一緒であった」と始まります。ルカのイエスは、祈るイエスを大事な場面でしばしば記しています。
主は、それから、弟子たちに、「群衆は私のことを誰だと言っているか」と聞きます。弟子たちは答えます。「洗礼者のヨハネ、あるいは、エリヤ、また、ある者たちは、古い時代の預言者たちの一人が起き上がったのだ」と言っています。
それで、主は「では、あなたがたは、私をだれだと言うのか」と問われます。ペトロが答えて、「神のメシアです」と述べます。神から大権を与えられ信任を受けたメシア、ギリシャ語ではキリストですと答えるのであります。主は、真剣に語られ、そのことを誰にも言わないようにとお命じになります。
それから、続いて、主は、「人の子、私は、多くの苦しみを受け、長老や祭司長、律法学者によって拒まれ、殺され、三日目に起き上がらされることになっている」と言われました。
生前のイエスがはたして、そこまで予期できただろうかと疑う学者もいるようです。しかし、聖書、福音書はいずれも、主は、事の起こる前から、御自分が受難に遭い、多くの苦しみを受け、殺され、しかし、復活するということを一致して記しているのであります。 
苦しむメシア・キリストという考え方は、その当時、人気はなく、一般的ではありませんでした。主イエス、お一人が、知っておられたということでありましょうか。
主は、それに続けて、弟子たちの歩むべき道を教えられるのであります。「自分の命・魂を救おうとする者は、それを失い、逆に、私のために、その命を失うものは、それを救うであろう」と言われ、「私に従ってきたい者は、日々、その十字架を背負って、私についてきなさい」と言うのでありあす。
当時、ルカがこの福音を書いた時代には、迫害が激しく、殉教する者も少なくなかったでありましょう。しかし、主は、私についてきたい者は、自分を否定し、自分中心の生き方を根本から改めて非利己的な生き方になって、私の後についてきなさいと励まされるのであります。
そして、「もし、だれかが、全世界を獲得しても、自分の命を失ったら、何の利点があろうか」と言われます。そして、「私と私の言葉どもを恥じる者には、人の子もその人を、自分と、父と聖なる天使たちの栄光において来るときに、その者を恥じるであろう」と明言しておられるのであります。
私たちは、日々、言葉と行いと思いを持って、罪を犯さざるを得ない弱い者ではありますが、主イエスの御言葉によって、まったく新しくされて生きていくことができるように、主の民に加えられた者であります。主を、すべての罪を赦し、新しく生きていくことができるメシア、キリストとして証ししながら、毎日のささやかな日常生活の中で、それぞれに負わされた十字架を背負って、欲や汚れた思いを清められながら、裁きの日にも、お出でになられる主イエスによって恥じられることのない者として歩んでまいりましょう。

私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。



スポンサーサイト
2010/07/04(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。