津田沼教会 牧師のメッセージ
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「多くの罪をゆるされた者」(ルカ7:36~50)
ルカ7:36-50、2010・06・27、聖霊降臨日第5主日(典礼色―緑―)
サムエル記下11:26-12:13、ガラテヤの信徒への手紙2:11-21

ルカによる福音書7:36-50
 さて、ファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。





説教「多くの罪をゆるされた者」(ルカ7:36~50)
 先週は、ナインという町で一人息子の死んだ命を生き返させていただいたやもめの記事が与えられていました。そして、来週は、ペトロの信仰告白と主の受難予告に入り、その次の主日からは、ルカ福音書9:51節に入り、主がエルサレムに十字架につくために、顔を固めて向けて進んで行かれる記事が与えられ、それからは、エルサレムに向う旅の途上での主のなさったみ業と語られたみ言葉が聖霊降臨後の主日に読まれていくことになります。
その意味では、本日の個所は、主日に与えられている福音の記事としては、「ある町」での出来事とされていますが、「ガリラヤの春」とも言えるガリラヤ宣教での最後の記事とも言えるでありましょう。
 「さて、ファリサイ派のある人が、主イエスを共に食事に招いた、そして主は食事のために横になっていた」というふうに、本日の記事は始まります。そのとき、その町に、ある女性がいて、主イエスが彼の家にいることを聞いて、やって来て、主の足もとに、迫り、涙で彼の足をぬらしはじめ、彼女の頭の髪の毛で、主の足をふいていた、そして、足に接吻した後、香油を石膏にいれたものを出してきて、主の足にぬっていたというのであります。
そのファリサイ派の人は、心の中で、「もし彼が預言者なら、この女性がだれであり、どういう人かわかるはずだ、この女性は罪深い者なのだから」と言いました。すると、主は、それを見抜いて言われます。「シモン、あなたに言いたいことがある。」彼は、「先生、どうぞ、おっしゃってください」ときっぱり言います。主は言われます。
「ある金貸しに二人の負債者がいて、一人は500デナリオン、もう一人は50デナリオン、借りがあったが、返すべきものを二人とも持っていなかったので金貸しは、両方とも免除してやった。どちらが、彼をより多く愛するだろうか。」シモンは答えます。「より多くゆるされた方だと思います。」主は、言われます。「あなたは的確に答えた。」
そして、身を女性の方に翻して言うのであります。「この女性を見ないか。あなたは、家に入ったとき、足を洗う水をくれなかったが、この人は、涙で私の足をぬらしてくれた。あなたは、何も接吻の挨拶をしてくれなかったが、この人は、足に接吻してやまなかった。あなたは、私の頭にオリーブ油を与えなかったが、この女性は、足に香油をぬってやまなかった。この人の多くお罪が赦されたことは、この人が多く愛したことでわかる。」
ここは、口語訳では、「この人は多く愛したので、多くの罪が赦された」となっていました。しかし、ここでは、愛が多くの罪を覆うということではなく、多くの罪が赦されたので、彼女は多く愛したのであります。
そして、主は言われます。「あなたの罪は赦されている。」そのとき、同席していた者たちは、罪をも赦すこの人は何者かと心の中で言っていました。
主は、「あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい」と、この女性を送り出したのであります。私たちも、程度の差はあれ、多くの罪を赦されて、洗礼に与った者ではないでしょうか。そして、しかし、本日の主日の祈りにもありますように、この世の荒れ狂う悪の力によって翻弄され、心と思いと行いとによって、多くの罪を犯す存在ではないでしょうか。女性のエピソードが、7章から8章にかけて続いていますが、本日の罪深い女性は、私たちの生活の偽らざる現実を象徴してはいないでしょうか。
主は、罪をも赦すことのおできになる神としてお出でになられた方です。私たちは、毎週、毎週、「心と思いと行いとによって」罪を犯し続けますが、その罪を赦されて、再び新しい1週間1週間が与えられて、礼拝から、この世の生活に派遣されていきます。ルターも言いましたように、罪を犯してもそれ以上に大胆に罪を悔いあらためて、毎週の生活へと主の平安のうちに押し出されていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
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2010/06/27(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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