津田沼教会 牧師のメッセージ
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「神様、私をあわれんでください」(ルカ18:9~14)ジェームス・サック牧師
ルカ18:9-14、2010・06・13、聖霊降臨後第3主日礼拝(典礼色―緑―)
エフェソの信徒への手紙2:11-22

ルカによる福音書18:9~14
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」




説教「神様、私をあわれんでください」(ルカ18:9~14)ジェームス・サック牧師

祈ります。主よ、私の岩、私のあがない主よ、どうか私の口の言葉がみむねにかない、心の思いがみ前におかれますように。アーメン。

 20数年前、ある春のさわやかな朝、当時4歳になった娘のベサニーを連れて、ルター神学校を散歩しました。アーズガード・ホールと呼ばれた古いチャペルであった場所の前を通りました。壊された、ただのレンガの固まりがありました。1925年に創立された私立のブレック高校。LNSTの時、毎日の礼拝の場、特別な集会の場、バスケットボールの場所。私は特に自分のことを感傷的であると思わなかった。歩いていると感慨深く思い出に浸ってしまいました。
 「結合している時はしっかり立ち、ばらばらになると倒れる」ということわざを思い出しました。建物のことだけではなく、人間についても言える、エフェソの信徒への手紙にも書いてあります。私たち人間には、敵意や衝突、そして他人との問題がたくさんあります。人間関係の問題は憎しみや怒りから来ると思いますが、私たちの中にある不安定、自身のなさも一つの原因なのです。一つのレンガを持ってきました。今日の説教は今までで最も重いものかもしれません。これを家に持って帰って、よく見ると大変おもしろいことに気が付きました。
 もちろん、これも他のと同様、同じような形、同じような色をしていますが、それぞれ、別々に違う印が付いています。それぞれレンガは完全ではないことを示す傷があります。
 私はひび割れしていないものが欲しかったのですが、このようにこれも傷だらけです。この私のレンガさえもこのようにひびが入っているほど傷だらけです。
 人間はこのレンガのようです。私は人々が欠点や不完全さを持っていますが隠そうとする様子を思います。
 けれども悪い癖や不十分さや誤りを簡単になくすことが出来ません。私たちが完全さを目指す時、たいてい骨折り損のくたびれもうけです。
 茶わんを買うとき、出来るだけ、完全なものを買いたいでしょう。傷があれば、少しがっかりなさると思いますし、買わないかもしれません。
 でも、萩では焼き物を竈に火を入れる前にわざとそれぞれの作品の下に傷を入れるそうです。この傷のおかげで、他の不完全な部分は目立たなくなります。それぞれの作品が大切なのです。それはアーズガード・ホールのレンガについても言えることです。
 建物を建てる時、ひとつひとつのレンガの大切さを考え始めました。我々人間でもそんなものではないかと思います。神様が私たちの足りない部分と過ちと間違いと不完全さと罪をゆるして下さいました。神様の目には私たち一人一人極めて貴重な存在なのです。
 ヨハネによる福音書の15章16節にもこうあります。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それはあなたがたが行って実を結び、その実がいつまでも残るためである。」
 レンガ職人である特定のスペースを埋めるためにそれぞれのレンガを選ぶように、神様は我々を神の国を作るために選んで下さったのです。私たちはそれぞれ特別で取り替えられないのです。不完全ではあっても神様は一人一人を特別な者として造られたのです。
 カウンセラーとして、私は2つのことを考えています。一つは、共同社会における個人の位置について考えて来ました。日本では個人より集団が強調されています。アメリカでは集団よりも個人が強調されています。この関係は「又は」ということではなく、「且つ」の問題です。
 もうひとつは、カウンセリングのセッションで出会う多くの人に見られます。それは人が人生の中に扱う恥の大きさです。彼らは自分が不完全であったり、受け入れられなかったり、失敗することを恐れています。
 私がカウンセリングする人々にはよく自己評価をしてもらいます。ここで、恥、傷について三つの例をご紹介したいのです。
 まず、大変簡潔な言い方。「私は鏡を見ても何も見えません。」誰であるか全く知らないと言うのです。小さい頃虐待されながら育ち、痛々しい数々の経験のせいでいつも脅えているのです。応えることの出来ない期待に応えようとすることに疲れてしまいました。彼は自分の信念に恥じないように生きようとする一方、他人の自分に対する期待にも恥じないように努力してきたのです。本人が到底到達出来ない完璧さを要求することです。大変空しかったと言っています。このようにつらい恥について語ってくれました。傷だらけです。
 もう一つの例は怒りの中に自己防衛や恥が見られます。誰かが怒っている時、私たちはその人に近づかないようにします。それ以上に恥を感じることはないということがわかっています。子供が良い例です。27人の子「パムちゃん大嫌い」。怒り、敵意、そして分裂が見られます。その奥には痛みや傷付いた感情が潜んでいるのです。拒絶された気持ち、パムちゃんは私と遊んでくれないから、とても悲しいという意味にもとれます。このような例の中にはしばしば痛みや拒絶、そして自暴自棄、また、傷が分かる。
 自己評価と恥の最後の例は、私の個人的なものです。私は高校一年生の時、157㎝で50キロ、バスケットボールで二つのチームに別れ、二人のキャップテンが選ばれますが、私はいつも最後まで指名されませんでした。自己評価にはマイナスの原因となりました。
各々の場合における傷を見ることができます、しかし、人々はそれらを見せたくありません。
 普通、誰かがどうして何かをしたり、言ったりするか動機や理由がわかる時、私たちは大切なことを知ります。一番批判的で、一番文句を言う、最も付き合いづらい人が一番気配りや愛を必要としているのです。自身がないのです。
 私は殴ってやりたかったり、反撃の言葉を投げ付けてやりたい気分になることもありました。きっと、彼らはずっとそういう反応を受けて来ているのでしょう。もっと優しく愛のある接し方が必要なのです。
 私はカウンセリングの中で、人間であるということは恐らくこの世で一番大変なことであろうということを発見しました。他人に接するのは易しいことではありません。人間関係は難しいものです。
 自分と違う人と接する時は、苦労します。肌の色が違う人々はしばしばあやしい者かのように見下げられてしまいます。
 男性と女性についても同様です。各国間の文化の相違、私たちの家族の中でさえ兄弟同志、病気の人や障害のある人さえも何か別のもののように見られています。
 他人と共に生きるということは一つのレンガを別のレンガの上に置くようなものです。二つのレンガが一緒に擦り合わされると摩擦が生まれます。
 私たちが誰かに直接、接する時、問題や苦労が生じます。けれども神様は私たちに新しい人との接し方を示して下さっています。それは主イエス・キリストを通してです。
 エフェソの信徒への手紙2章14節「キリストは私たちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての壁を取り除く。」
 ボンヘッファーは、第二次世界大戦中にヒットラーに殺されました。彼は「私たちは自分のために人を愛するものではない、その人のために愛するのでもない。私たちはキリストのために人を愛する。」
 ボンヘッファーの言葉をそのまま引用しますと人間の愛は自分のために他人に向けられるが、霊的な愛はキリストのためである。
 ボンヘッファーは愛は直接人に到達するわけではないと言います。それはキリストを通して達成されるセメント(モルタル)のようです。キリストは私たちのためのセメントです。
 キリストの死そして復活によって私たちは神様に受け入れられる者となりました。自分自身を受容する時、他人の良い所を見つけられる。
 今朝私は声を大にして伝えたいと思います。皆さんは神様に受け入れられているのです。あなたのひび、欠点や汚点、過ち、そして罪さえも、神様はキリストを信じる者皆を純粋で義なる者としてくださったのです。今朝の聖書の個所の少し前に目をやると、エフェソ2章8節から9節にこういう言葉があります。「あなたがたの救われたのは実に恵みにより信仰によるのである。それはあなたがた自身から出たものではなく神の賜物である。決して行いによるのではない。それは誰も誇ることがないためである。」
 自分の手で得ることは出来ないのです。私たちは正しいことを言ったり、したりすることで神様の賜物を得ることは出来ないのです。神からの賜物なのです。
 私たちはお互いに平和のうちに暮らすために、神様の民として呼び集められたのです。私たちは神様の家族であることがわかります。使徒たちや預言者たちによって造られた基盤があってイエス・キリストという大黒柱のある家です。イエス・キリストによって私たちは互いに和解し近くにある者に平和をのべ伝えるために呼び集められたのです。
 私たちは赦しをお願いする必要があるかもしれません。いえ、必要があります。でも、私たちは神様の姿に似せて造られたのです。神様にとって掛け替えのない者なのです。
 主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも主にあって共に建てられて霊なる神の住まいとなるのである。

祈りましょう。天の神様、私たちや今日の日のためにお祈りします。あなたが私たちをあなたのお姿に造り、私たちのことをいつも愛して下さっていることを感謝します。あなたのひとり子を私たちのために地球に送って下さいましたことを感謝します。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
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2010/06/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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