津田沼教会 牧師のメッセージ
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「祝福された世界」(ルカ24:44~53)内海望牧師
ルカ24:44-53、2010・05・16、昇天主日(典礼色―白―)
使徒言行録1:1-11、エフェソの信徒への手紙

ルカによる福音書24:44~53
 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父から約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。



 説教「祝福された世界」(ルカ24:44~53)内海望牧師
 今日は主の昇天主日です。復活されたイエスさまが40日の間弟子たちの前に現れ、40日目に天に昇られたという伝承に基づいた祝日です。13日、先週の木曜日が4月4日のイースターから40日目に当たるわけで、その日が「昇天日」です。罪と死に勝利されたイエスさまを喜ぶ鐘の音が、街中に響き渡り、人々は嬉々として教会に集う大きなお祭りです。
 ところで、毎年、この昇天主日の聖書を読むたびに、私たちの心は暖かくされます。ルカ24章50、51節をご覧ください。イエスさまは、「手を上げて祝福された。そして祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」と書かれています。イエスさまの祝福が、弟子たちの上に、更に村全体に、国全体に、そしてやがては地球全体を包んで行く様子がよく分かります。この世界は、イエスさまの祝福の下にある、なんと素晴らしいことでしょうか。
 実は、聖書にはもう一箇所祝福について書かれているところがあります。それは、創世記2章3節です。神さまは天地創造の業を完成され、世界を見渡し、すべてが「極めて良かった」とされ、「祝福し、聖別された」と書かれてあります。聖書の2ページです。しかし、その後、1500ページにわたって、この祝福された世界が神さまに叛き、神さまを苦しめ、痛みを与える罪の世界になってしまった事実が書かれているのです。そして、今日の聖書に至って、復活のイエスさまの祝福が与えられているのです。従ってこの「第二の祝福」は「第二の創造」「世界の復活の日」と呼んでもよいでしょう。
 「あらゆる国の人に」、また「地の果てに至るまで」という言葉があります。イエスさまの祝福は、世界の一部、信仰者のみ、善人のみでなく、全世界を覆うのです。
 現在の式文は、祝福は、「あなた方と共に」となっています。「私たちと共に」とは言いません。イエスさまの祝福は、単にここに集まっている私たちに限らず、すべての人々に向けられているのです。そこには何の差別もありません。すべての人々を包むのです。
 しかし、なぜイエスさまは野放図と言ってもよいような、無制限な祝福を、この世界に与えて下さったのでしょうか。私たちの目には、この世界はこの祝福に値しないように見えます。そうです。確かに、この世界は罪の世界なのです。弟子たちも、そのように思い、イエスさまを理解出来ませんでした。だからこそ、彼らの心の目が開かれる必要があったのです。
 イエスさまによって、弟子たちの「心の目が開かれたとき」何が見えたでしょうか。それは、イエスさまだからこそ、この祝福を与えることが出来たのだという事実ではないでしょうか。イエスさまの十字架の苦しみと死によって、この世界は罪赦され、イエスさまの復活と共に、再び祝福された世界となったのです。47節で、イエスさまは、弟子たちに「エルサレムから始めて」と命じられています。イエスさまは息を引き取られる前、「父よ、彼らをお赦し下さい」と祈って下さったのです。その祈りが聞き入れられたのです。ですから、罪と死に勝利された復活のイエスさまが、今、この世界に罪の赦しと祝福を与えて下さったのです。
 弟子たちは、このキリストの証人とされたのです。このイエスさまの祝福はこの世界における罪と死に対する勝利の宣言、罪の赦しの宣言なのです。ですから、エルサレムから新しい祝福は始められるべきであったのです。
 従って、この祝福は決していい加減な野放図なものではありません。神さまのひとり子の苦難と死という何ものにも代えることのできない高価な恵みによって与えられた赦しなのです。ひとり子の十字架上での苦しみと死という代価を払って与えられた祝福なのです。私たちの罪を赦すためにイエスさまが死んで下さったのです。それほど、私たちの罪は重いのです。このことをしっかりと心に留めたいと思います。
 しかし、それでも確かに新しい時が始まったのです。老預言者シメオンは幼子イエスさまに出会ったとき「ヌンク・ディミティス」を声高らかに歌いました。「主よ、今こそあなたは、この僕を安らかに去らせて下さいます。私はこの目であなたの救いを見たからです」と。待望の時が終わって、完成の時が始まったのです。
 その完成の時の始まりこそ、「教会の時の始まり」なのです。イエスさまは、このイエスさまの十字架の苦しみと死によって贖われた罪の赦しを地の果てまでも、すべての人々に告げなさいと弟子たちに命じられます(使徒言行録1:8)。この復活のイエスさまの命令に従って歩み出したのが教会なのです。この教会の働きは、「イエスさまの活動の第二期」なのです。
 ところが、イエスさまは弟子たちに「教会を造りなさい」とはおっしゃっていません。「待っていなさい」あるいは「とどまっていなさい」とおっしゃっているのです。弟子たちは、教会設立のための仕事は何もしませんでした。イエスさまの言葉を守ってひたすら祈っていたのです。
 ある意味では当然の態度です。私たちは、12弟子を始め、弟子たちがどんな人物か知っています。いつもイエスさまと弟子たちの間には大きなずれがありました。イエスさまは弟子たちの無理解に天を仰がれたこともしばしばでした。彼らは、私たちと同じような貧相な信仰しか持ち合わせていませんでした。祈りの言葉も満足に言えないほどでした。人々に語るにはあまりにもみすぼらしい貧しい言葉しか知りませんでした。意志が弱く、殉教どころか、すぐにイエスさまを裏切るような卑怯な罪人の群れでした。どうして、イエスさまは、このような弟子たちに完成の時をお任せになったのでしょうか。とても、彼らはそのような任務に耐えることはできません。
 イエスさまは、弟子たちの罪、弱さ、頼りなさをよくご存じでした。イエスさまは手放しでお任せになったのではありません。「父が約束されたもの」、それは神さまの力です。聖霊です。「君たちの才能、努力、信仰、意志に頼ってはいけない、神さまの力が与えられるから、その力に頼って生きて行きなさい。その時、人知をはるかに超える働きが生まれる。その時まで待っていなさい」とおっしゃっているのです。これは、言葉を換えて言えば、弟子たちに対する罪の赦しの宣言であり、死すべき身体からの復活です。
 ここにルターの祈りがあります。「私はあなたのみもとに行くことは出来ない。それゆえにわが神よ、あなたが立って私のところに来て下さい。私をあなたのもとに連れて行って下さい。」ルターは罪人である自分をいつも自覚していたのです。あるいは使徒パウロはこう言っています。「わたしは神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれる値打ちのないものです」(コリント一15:9)。「私は罪人の中で最たる者です」(テモテ一1:15)。パウロもルターも自分たちの信仰、雄弁などには決して頼らなかったのです。パウロは最初の宣教旅行から帰って来たとき、報告会の席上で「神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の道を開いてくださったことを報告した」(使徒言行録14章27節)と報告しています。神さまがなさったことであり、パウロの業ではなかったと言うのです。
 私たちは、ここでパウロやルターの謙そんを学ぶべきでしょうか。そうではありません。自分を見るならば、私たちも、あの弟子たちや、パウロ、ルターと同じように、「罪人の頭であるこの私なんか」とため息をつきたくなります。しかし、確かにイエスさまはこの私たちを、津田沼教会をイエスさまの愛を宣べ伝える証人として用いようとしてくださっているのです。ここに今日、聞くべき福音があります。主が共にいて私を用いてくださることを信じるとき、力が与えられるのです。罪の赦しの祝福は、まず罪人の群れである弟子たちから始まったのです!そして今私たちにまで及んでいるのです。このことを感謝しましょう。そして、聖霊の力を待ち望みつつ、主に用いられる光栄を喜びつつ、罪の赦しの証人として、主に祝福された世界に生きる喜びを、思いと言葉と、行いによって人々に伝えようではありませんか。

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2010/05/16(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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