津田沼教会 牧師のメッセージ
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「死から命へ」(ヨハネ10:22~30)
ヨハネ10:22-30、2010・04・25、復活後第3主日(典礼色―白―)
使徒言行録13:26-39、ヨハネの黙示録7:9-17

ヨハネによる福音書10:22~30
 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」


説教「死から命へ」(ヨハネ10:22~30)

本日の主日の祈りに、「あなたは、暗闇を歩む者を、真理の光で照らして、正しい道へ導かれます。教会の交わりに召されたすべての者に、信仰に反することは固く拒み、信仰が求めることを行う勇気と力を与えてください」とありました。信仰に反することは、死であり闇であり、信仰が求めることは命であり、光への道でありましょう。
私たちは、本日の復活後第3主日から、復活後第5主日まで、三回にわたって、ヨハネ福音書から、福音が与えられています。
本日の記事は、ヨハネ10:22-30であります。ここの記事が、復活節になぜふさわしいのか、なぜ、選ばれているのかを、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 今日の記事はこう始まっています。「その時、エルサレムにおいて神殿再奉献祭が起こった、それは、冬であった」、と。イスラエルの国では、先の雨と後の雨と、二度の雨季があります。悪い天候の時期であります。それは、主イエスのやがて来る受難と十字架の死を暗示するものであったでありましょう。
神殿再奉献祭とは、紀元前175年ころ、ユダ・マカバイがエルサレム神殿を奪回して、偶像崇拝に染まっていた神殿を清め、それを記念するために守られるようになった、12月中旬頃から始まる祭りでありました。
 ヨハネ福音書の本日の記事の前後は、秋の仮庵祭(スコトの祭り)と、春の過越しの祭りの出来事となっており、その間の出来事として、本日の記事が書かれているのであります。
 「主イエスは、神殿の境内において、ソロモンの柱廊、屋根つきのポーチコを歩き回っておられた」とあります。すると、ユダヤ人たちが、すなわち、ユダヤ人の指導者たちが、やって来て彼を取り囲んで、質問していたのであります。「いつまであなたは、私たちの魂を宙ぶらりんにしておくのか、あなたが、メシアなら、腹蔵なく、明確に言いなさい」と。
 主は、お答えになります。「私は、言った、そして、あなたがたは信じ委ねない。私の羊ではないからである。羊は、私の声を聞き分ける。私も彼らを認識する。そして、彼らは、私に従って来る」と。
私たちは、主イエスの声を聞き分ける、主イエスの羊として、召された者であります。信仰に反することを固く拒み、信仰に適った道を歩む者とされているのであります。私たちは、死から命へ、闇から光のうちを歩む者に、主イエスの十字架の死と復活を通して、導きいれられている者であります。
 しかし、この記事を書いた福音書記者の時代にも、紀元後100年ころのことであったでしょうか、ユダヤ教の指導者たちは、主イエスをメシアだとは理解することができなかったのであります。
 現代の多くの指導者たちも、主イエスこそ、メシアであり、神の子であることを認めないのであります。
 主は、「私の父の名において私がしている業どもが、私について証言している」と言われ、また、「私は私の羊ども、彼らに永遠の命を与える、そして、彼らは永遠に滅びず、だれも、私の手から彼らを引き離し、ひったくることはないであろう」と言われました。
 そして、「私の父、彼が私に与えて下さったものは、すべてのものどもよりも、大きい、そして、だれも、御父の手から、それらを引き離し、ひったくることはできない」とおっしゃるのであります。「私の御父は、それらを私に与えて下さった方ですべての者たちよりも偉大である」との異読、写本もありますが、新共同訳聖書にのっとって、私の父がそれらを与えて下さった、それらは、すべてのものよりも大きいと読み取っても、間違いではないでありましょう。
 主イエスは、「私の父が私に与えて下さったものは、すべてのことどもよりも、偉大であり、だれも御父の手から引き離すことはできない」と言われ、そして、最後に、「私と父は一つである」と言われるのであります。
 私たちは、父なる神が派遣して下さった主イエスの十字架の死と復活を通して、永遠の命を与えられているのであります。
 そして、死から命へ、罪の闇から、生命の光へと教会の交わりに召しいれられた一人一人であります。
 人間にとって、死は大きな打撃であり、すべての希望をうちひしぐ存在であります。しかし、主イエスは、良き羊飼いとして、御自分の命を羊たちのために、差し出されたのであります。私たちは、主のみ声を聞き分け、偽りの道を固く拒んで、主イエスにどこまでも、従って行く羊の群れとして、先に導きいれられた者であります。
 ユダヤ人たちは、主イエスが、自分を神と同等としたと非難して、石で打ち殺そうとしました。私たちは、主イエスと父なる神が一つであることを知らされている者であります。
 国民の99パーセントが、ノンクリスチャンである現代の日本において、主イエスの声を聞き分け、歩んで行くことは、非常な忍耐と努力を必要とします。
 しかし、主は、私の父が与えてくれたものは、すべてのものよりも大きく、父の手からそれを、だれも引き離すことはできないと約束してくださっています。
 復活節は、私たちが、死から命へと、新しく移された喜びの時であります。この父が与えて下さった喜びから、だれも、また、死を含めて何ものも、私たちを引き離すものはないと、主は受難の前に、宣言しておられたのであります。
 自分の無力と弱さに、しばしば、絶望する者でありますが、主が良き羊飼いとして、私たちを導いてくださり、その死を通して、私たちを不信仰から、信仰の道へと招き入れてくださった。それが、復活の出来事の意味であります。私たちは今もなお、聖書を通して語る主イエスのみ声に聞き従い、聞き分けて、主に従った羊たちの群れ、教会の交わりに与っていきましょう。
 天の父なる神さま。
私たちは、今、復活の主を喜び祝っています。私たちの罪、とがをみ子の十字架の死によってあなたは、取り除いてくださいました。そして、あなたは、罪に悩み、しばしば、行き詰まる私たちを、すべてにまさって大きく、尊いものだと励ましてくださいます。
どうか、私たちが、強められて、この檻、この教会の他にもいる羊たちを、一人でも多く、呼び集める働きへと召してください。そして、いつも、羊飼いなる主イエスのみ声を聞き分けることができますように、導いて下さい。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
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2010/04/25(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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