津田沼教会 牧師のメッセージ
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「破れた弟子たちの真ん中に」(ルカ24:36~43)
ルカ24:36-43、2010・04・18、復活後第2主日(典礼色―白―)
使徒言行録9:1-20、ヨハネの黙示録5:11-14

ルカによる福音書24:36~43
 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。


説教「破れた弟子たちの真ん中に」(ルカ24:36~43) 
 
先週の福音ルカ24:13-35は、どちらかと言えば、精神的な意味での復活の主イエスの出現でありました。エマオ途上での主イエスの同行、そして、エマオの家での食事の時の所作を通して、それが復活の主であることが、二人の弟子に分かり、二人は即刻、エルサレムの弟子たちのもとに、引き返し、すると、エルサレムにいた弟子たちも、シモンに主が現れたといい、そしてエマオから戻った二人も主の復活を説明していたのであります。  
今日の部分は、それに続く部分であります。それらのことを彼らがしゃべっているとき、主が彼らの真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」とお語りになるのであります。
彼らは、三日前の主の十字架刑の死において、絶望に捕らわれていたでありましょう。彼らの望みは、無残にも、消えうせ、彼らは、破れた人生に立たされていたでありましょう。主を裏切ったという思い、そして、自分たちも死の危険におびえ、希望をどこにも見いだせないでいたでありましょう。
しかし、その彼らの真中に、主は現れ、立たれて、「あなたがたに平和が」と言われるのであります。この平和は、「エイレネ」とギリシャ語で言われますが、ヘブライ語では「シャローム」と言います。しかしこれは、ここでは単なる挨拶にとどまらず、健全な健やかな状態にあなたがたがあるように、との主の慰めと励ましの言葉であります。
私たちも、しばしば、復活された、勝利者、主イエスを忘れて、日常生活の中で、闇と死にまみれた破れた自分を見出すのであります。しかし、そのような中にこそ、復活の主は、今日も我々に現れてくださる、そして、共に苦しみを担い、一緒に生きてくださるのであります。主は、弟子たちが、おびえ、霊だと恐れる者になっているときに、「私である、霊には肉も骨もないが、私にはあなたがたが見ているように、それがある」と示されるのであります。にもかかわらず、弟子たちは、霊を見ていると思っていたのであります。
今日の記事では、弟子たちの語る言葉は、何一つでてきません。一方的に、主がお語りになるのであります。主は、「私に触ってみなさい、そして、私の十字架にかかった手と足を御覧なさい」と言われるのであります。「まさしく、私である」と、両手、両足をお見せになるのであります。けれども、弟子たちは信じることができず、疑いのなかにとどまっているのであります。「なぜ、あなたがたは、揺さぶられているのか、何のゆえにあなたがたの心に、疑いどもが、上って来るのか」と問われます。最初に述べましたように、先週のエマオ物語においては、むしろ、精神的な主の復活に強調点がおかれていましたが、本日の復活の主は、身体的な特徴を示しています。復活は、霊的なものではなく、私たちの地上の体ではありませんが、身体をもって肉体をもって、弟子たちに現れるのであります。そして、「私の両手と両足を見なさい」と言って、主は指し示すのであります。
彼らは、なお、喜びから信じられないで、不思議がっていると、主は、「何か食べる物をあなたがたは持っているか」とお問いになります。彼らが食事の残りものであったであろう魚の焼いたのの一部を渡します。すると、主は受け取って、彼らの前でそれをむしゃむしゃとお食べになったのであります。
主は、破れ切った弟子たちの真ん中にその体をもって現れてくださいました。私たちも、疑い深く、信じにくい弱い者でありますが、主は、今も聖書を通して、破れ切った私たちの日常生活の真ん中に共に立って下さいます。自分の欠点や弱さに耐えがたくなりがちですが、復活の主が今もそんな私たちと共にいてくださることを、信じて、もう一度、本日から、新しい生き方を始めようではありませんか。アーメン。

望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。


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2010/04/18(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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