津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「エマオ物語」(ルカ24:13~35)
ルカ24:13-35、2010・04・11、復活後第1主日(典礼色―白―)
使徒言行録5:12-32、ヨハネの黙示録

ルカによる福音書24:13~35
 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたというのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」、そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。



説教「エマオ物語」(ルカ24:13~35)
 
本日から、復活後の主日が始まり、主が復活後40日間、弟子たちに現れたと使徒言行録で記されているように、復活祭から40日間ほど、復活節が続きます。そして、昇天主日となり、その次の週が聖霊降臨祭、ペンテコステとなります。
復活後の、そして特に聖霊降臨後の弟子たちの生き変わったような目覚ましい活動を示すためでしょうか、これからの復活節は昇天主日まで、旧約聖書ではなくて使徒言行録が、第一の朗読として、与えられています。
さて、本日、復活後第1主日に与えられている福音は、ルカ24:13-35であります。本日の説教題を「エマオ物語」と付けておきました。み言葉の歌、ガリラヤの風かおる丘ででも、歌われている美しい伝説的な記事であります。ルカの手による編集があることは確かでありましょう。
しかし、それによって、本日の出来事の歴史性がうすいということではないでありましょう。ルカ福音書では、エルサレムにおいて、また、エマオへの途上とエマオにおいて、主はご復活の姿を現わします。他の福音書では、ガリラヤで姿を現す記事もでてきます。 
ルカ福音書では、エルサレムの神殿で福音書が始まっており、また、エルサレム神殿で弟子たちが神をほめたたえるという記事で福音書が終わっています。
復活の主は、一定の場所にとどめられて、姿を現すのではなく、また、使徒言行録によれば、40日間弟子たちに現れます。共通していることは、弟子たちは、復活の主にであっても、最初は、分からず、信じれず、疑ったということであります。主の復活という出来事は、弟子たちにとっても容易に信じることはできなかった出来事なのであります。
本日の記事は、4つの部分に、分けて考えることができます。24:13-24と24:25-27と24:28-32と24:33-35に分けられます。
最初の記事は、エマオ途上での主イエスの出現であります。「そして、見よ、二人の人が、会話をやりとりしながら、議論をしながら、エマオというエルサレムから60スタディオン離れた村に向かっていた」と始まります。すると、見知らぬ人が後ろから追い付いて来て、彼らに加わり、一緒に進み始めます。それは、復活した主イエスでしたが、彼らの眼からは遮られていて彼らには主であることが分かりませんでした。
そして、「あなたたちがやり取りしている話は何のことですか」とその人は尋ねます。暗い顔になって、彼らは立ち止り、クレオパという一人の弟子が語ります。「あなただけが、エルサレムに滞在していて、ここ数日に起こったことを知らなかったのですか」と言い、その人が「何のことどもですか」、と言われると、「ナザレのイエスのことです、彼は、神とすべての民との前で言葉にも行いにも力ある預言者の人となりました。彼こそ、イスラエルを贖ってくださる方と期待していましたのに、祭司長たちと民の議員たちは、彼に死の判決をもたらし、十字架にかけて殺してしまったのです。それから、もう三日になりますが、ある仲間の婦人たちが、墓へ朝早く行くと、天使たちの幻を見て、あの方は生き返ったと言ったというのです。弟子たちのある者たちも墓へと行って見ましたが、彼女たちの言うとおりに見出して帰って来たのです」と言うのです。
主イエスの弟子たちは、当時のメシア像であったイエスがローマ帝国の圧政から解放してくれる政治的なメシアになることを期待していて、主が全人類の罪を贖うメシアとなることをまだ、理解できないでいたのです。
第2の部分は、主イエスの応答です。「ああ、愚かな者たちよ。心の鈍い者たちよ、メシアは苦しみを受け、彼の栄光に入ることに決まっていたではないか」と、言われ、モーセから始めて、預言者たちの語ったことを、聖書、旧約聖書を解釈して教えておられたのであります。
 第3は、エマオでの出来事であります。エマオが近づいても、なお先にこうとする主イエスを二人は、強いてとどめようとします。「もう夕方になるし、だいぶ日も傾きました、私たちのうちにとどまりください」と懇願すると、主は、とどまるために、中へ入られます。そして、食卓の席に着くと、神をほめたたえ、パンを取り、感謝してこれを裂き、二人に渡されます。その時、彼らは、主だと分かったのです。それで、その時に、彼らは立ち上がり、エルサレムへ引き返したのであります。
 そして、第4は、エルサレムに帰ってみると、11人と他の弟子たちも集められていて、彼らは主がシモンに現れたと言っていました。それで、彼ら二人も、彼らに彼の道においてのことどもや、パンを裂いてくださったときに、彼が彼らに認識されたことを説明していたとあり、この記事は次週のこのすぐあとの部分に続くのであります。他の弟子たちは、これによっても、まだ信じることができないのであります。
 私たちも、主の復活が信じられない不思議なことに思われます。しかし、主は、福音書を中心として何度も復活の姿を現わし、私たちが、主の復活の喜びにおいて、すべての言葉と行いにおいて復活の力をのべつたえる者となるように今も招いて下さっているのであります。

人知では到底はかりしることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあってあなたがたを守るように。アーメン。


スポンサーサイト
2010/04/11(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。