津田沼教会 牧師のメッセージ
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「墓へ走るペトロ」(ヨハネ20:1~18)
ヨハネ20:1-18、2010・04・04、復活祭(典礼色―白―聖餐式)
出エジプト記15:1-11、コリントの信徒への手紙一15:21-28

ヨハネ20:1~18
 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこにおかれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。

 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。



説教「墓へ急ぐペトロ」(ヨハネ20:1~18)
 皆さん、復活祭、イースター、おめでとうございます。本日の主日の祈りにも「御独り子イエスによって、死を征服し、永遠の生命の門を開かれた全能の神さま。」と祈られていました。私たちにとって、死は避けることのできない、すべての人に与えられている定めであります。しかも、聖書は、罪の結果が死であるとも教えています。しかし、その死を征服し、破られたのが、全能の神であり、旧約聖書もそのことを預言していると私たちは教えられています。
さて、本日与えられています福音は、ヨハネ福音書20:1-18であります。これは、20:1-10と20:11-18とに分けられます。前半では、マグダラのアリアが、朝早く、まだ闇の蔽ううちに、彼女は墓へとやって来ます。ところが、墓の入り口をふさいでいた大きな石は取りのけられていたのであります。
彼女は、大急ぎで、駆けて、シモン・ペトロともう一人の、主イエスが愛された弟子の所に行って、言います。「彼らが主の体、遺体を運んで行ってしまいました。彼らが彼をどこに置いたのか、私たちは知りません」と。それで、ペトロは、出ていき、墓に向かって走りました。もう一人の弟子も、一緒に走り、彼の方が先になり、墓につきます。そして、墓の中をのぞきますと、主の遺体を巻いていた亜麻布が置いてあるのを見出します。しかし、彼は中へは入りませんでした。
すると、続いて、ペトロも追い付いて墓へとやって来ました。ペトロは、主の受難のとき、「主を知らない」と三度も否定しましたが、墓までどのような気持ちで走り、やって来ていたのでしょうか。ペトロは、着くと、墓の中に入ります。
そして、体を包んでいた亜麻布と、また、離れた所に、ナプキンのような顔おおいが、たたんで置いてあるのを見ます。もう一人の弟子も続いて墓の中へやって来て、「見て、信じた」とあります。そして、彼らは、聖書が、彼は起き上がる、復活することになると約束していたことを理解しないでいたのであると記者は記しています。そして、彼らは、彼らのところに向かって帰っていったのであります。
そして、後半の20:11-18の部分となります。マグダラのマリアは、ペトロたちを追って、墓まで来ていたのでしょう。彼女は、遺体が見つからないので泣いていました。そして、墓の中をのぞくと、主イエスの遺体のあった頭のほうと足のほうに、天使が二人座っているのを見出すのであります。
彼らは訊きます。「どうして、泣いているのか」と。マリアは、「だれかが彼をもって行った。そしてどこに、彼らが持って行ったのか、私は知りません」、と言います。そして、その時ぐるっと、後の方を向きなおすと、主イエスが立っているのを見ますが、それが主だとは分かりませんでした。主は、言われます。「なぜ泣いているのか、だれを捜しているのか。」
マリアは、彼が園丁だと思って言います。「もしあなたが、彼を運んだのなら、言ってください。私が引き取りますから」と。すると、主は、「マリアムよ」、と呼びかけます。マリアは、「ラブーニ」、すなわち私の先生とヘブライ語で答えました。
すると、主は言われます。「私に触れてはならない。私はまだ、父のもとにのぼっていないのだから」と。そして、言われます。「私の兄弟たちのところへ行って言いなさい。『私の父であり、あなたがたの父であり、私の神であり、あなたがたの神に向かって私はのぼる』と。」
マリアは、ペトロたちのところに行って言います。「私は主を見ました」と。そして、あれらのことを、彼は彼女に語ったと告げたのであります。主イエスは、父のもとから下って来られ、死んで復活させられ、また、父のもとに上昇していかれることになっていたのであります。私たちは、受難週の間に、主の受難を思い起こし、洗足礼拝や受苦日の礼拝を、少人数でもちましたが、本日、主は、本日の福音を通して、自分の兄弟たち、弟子たちに、復活の出現を知らせました。私たちは、今も、この復活された主によって、聖霊の息吹を与えられ、すべての行いと思いをもって、新しい人間にされているのであります。
死の悲しみは、主イエスの復活によって、打ち破られているのであります。本日の福音の記事を通して、新しくされ、私たちは、ここから、新たに、再び、日常の生活に戻って行きましょう。アーメン。
  
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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2010/04/04(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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