津田沼教会 牧師のメッセージ
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「神の訪れの時」(ルカ19:28~48)
ルカ19:28-40、2009・11・29、待降節第一主日(典礼色―紫―)
エレミヤ書33:14-16、テサロニケの信徒への手紙二3:6-13

ルカによる福音書19:28~40
イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
「主の名によって来られる方、王に、
 祝福があるように。
 天には平和、
 いと高きところには栄光。」
すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す。」



説教「神の訪れの時」(ルカ19:28~48)

本日から、受難週に入ります。一年の教会暦の始まりのとき、アドベント第1主日にここの個所が読まれました。それは、再臨の主としての主イエスのエルサレム入城でありました。本日は、これから間もなく十字架につく受難の主として、この個所が選ばれているのであります。
そして、教会暦の昨年11月末から始まりました新年度は、ルカによる福音書が主たる福音書として与えられています。そして、この一年の教会暦の初めに、与えられていました福音は、エルサレム入城と言われる部分でありました。ルカ19:28-40が与えられていました。毎年教会暦の始めに、共観福音書と呼ばれますマタイ、マルコ、そして、ルカの福音書の中から、この出来事が読まれます。ヨハネによる福音書にも、それにあたる記事があります。非常に大切な出来事として、4つの福音書に記されており、アドベントの第1主日と、本日、復活祭前の枝の主日、受難週の初めの主日にもここが、再び読まれるのであります。ただし、少し長くなってルカ19:28-48が与えられています。ルーテル教会では、ことのほか、このエルサレム入城と呼ばれている出来事が、大切にされ、一年に二度も読まれるのであります。
本日の主日の祈りでは、「あなたはみ子イエス・キリストを世に送り、十字架の死に渡されました。み子と共に、私たちがその従順と復活の勝利に与る喜びを与えてください」と祈りました。一人の人が死ぬということは大変なことであります。ましてや、主イエスは、神の独り子でありながら、私たちの罪のために、十字架の死につけられるのであります。私たちは肉親を失ったとき、大きな打撃を受け、悲しみに染まりますが、しかし、「私の罪のために、死んで下さった」と言えるのは、主イエスのみであります。
ルカ福音書は、他の福音書、特に、マタイ、マルコと比較してみますと、微妙に、付加、あるいは省略されています。本日のルカ19:28-48について、内容をご一緒にしばらく考えてみましょう。
そして、これらのことを言われた後に、彼は、先頭に立って、エルサレムへと上りながら、進んでおられたと、本日の記事は始まっています。本日の記事の直前には、主はムナの譬えで話されたのであります。彼が王として帰って来ることを欲しなかった国民が、主イエスが王として来られるのを拒んだエルサレムの指導者たちを表しているのであります。
この譬え話をなさったあと、本日の個所へと続き、主は、エルサレムへと上られ、先頭に立って進んで行かれるのであります。この「進む」という言葉は、死に向かって進むという意味も含んでいる「ポーレウオー」という単語であります。
そして、起こったことには、主は、ベトファゲへと、そして、ベタニアへと、オリーブの園と呼ばれる山に向かって、近づいたとき、こうお語りになりながら、弟子のうちの二人を遣わしたのであります。「向こうの村へ出て行きなさい。そうすると、まだだれも乗ったことのない子ろばがつながれているのを、あなたがたは見出すであろう。それを解いて、連れて来なさい。もし誰かがあなたがたに尋ねたとする。すなわち、『何であなたがたは、解くのか』と。そのときには、あなたがたはこのように言いなさい。『彼の主が、必要を持っている』と。」
そして、彼らが出ていくと、ちょうど彼が彼らに言われた通りに彼らは見出した。彼らがその子ろばを解いていると、その主人たちが、「何であなたがたはほどくのか」と彼らに向かって言います。彼らは言います。「彼の主が必要を持っているのです」と。そして彼らは、それを引いて、イエスに向かって連れてきます。そして、彼らの上着をその上に広げ、彼らはかのイエスをおのせしたのです。彼が進んで行かれるとき、人々はその道に彼らの服を敷いたのであります。そして、既に彼が、オリーブ山の下り坂に向かって、近づいたとき、大勢の弟子たちはこぞって、喜びながら、彼らが見た彼の力ある業・奇跡のことで大声で、神をほめたたえ始めたのであります。彼らはこう語りました。「来られている方は祝福されますように、主の名における王は。天には平和が、また、栄光がいと高き所にあるように」と。主イエスがクリスマスに、ルカ2章でお生まれになったときは、「地には平和が、いと高きところでは栄光が」と天使たちは歌いましたが、ここでは、「天において平和」がと弟子たちは語るのであります。主はこの世界へと、エルサレムへと拒まれる王として入城なさるのであります。そして、天に帰られるのであります。群衆の中から、ファリサイ派の者たちが、彼に向って言います。「先生、あなたの弟子たちを咎めてください」と。すると、主は言われました。「この者たちが黙れば、石どもが叫び出すであろう」と。主イエスがエルサレムに入城するということは、神の栄光を表す出来事であり、被造物の石も応答するのであります。
そして、主は、エルサレムが見えてくると、泣きながら、言われるのであります。お前が神の良き訪れの時を知っていたならなあ、しかし、今はお前においては、お前の目からは、平和のことは隠されている。そして、主は、エルサレムの崩壊を預言した後、エルサレムへと入り、宮清めをなさり、商人達を神殿の境内から追い払われるのであります。そして、祭司長たち、律法学者たち、民の長たちは、主イエスを何とか殺そうと狙いますが、果たせませんでした。民衆が彼に耳を傾けるのにしがみついていたからだと本日の記事は終わっています。主は栄光の王として軍馬に乗って、お出でになられたのではなく、エルサレムの指導者たちによって、拒まれる王として、お出でになられたのであります。しかし、以前には、主イエスのメシアとしての本質は、隠され、明らかにされることを禁じられていましたが、ここでは、主は、人間どもによって、拒まれる王として、今や御自身を明らかにされているのであります。
 本日から始まります受難週は、「神の良き訪れの時」であります。
私たちは、主の十字架への道行の40日間、あるいは46日間を歩んでいますが、その間にも、誘惑に負けたり、心と思いと行いとによって、主なる神のみ前に罪を犯さざるを得ない、自己中心の弱い存在であることを改めて思い知らされながら、歩んで来ました。そして、今日から、エルサレムでの主イエスの受難の死と、その三日後のご復活を迎えようとしています。
死は、私たちにとって恐ろしいものですが、主イエスが、私たちのために死に、しかも、十字架の死におつきになって下さいます。それは、一見悲しい出来事ですが、私たち人間にとっては、「神の良き訪れ」の時であります。来週の復活祭には、洗礼をうける方も、転入をなさる方もいます。この1週間、主イエスを仰ぎながら、主の受難にを心留めて、歩んでいきましょう。
父なる神さま。
2月17日の灰の水曜日からの四旬節も終わりに近づこうとしています。その間にも、もろもろの罪を犯さざるを得なかった私たちですが、その私たちのために、主がおいでになられました。そして、わたしどものために、十字架の死においてみ子の命をたまわりますことを、心から感謝します。どうか、喜びをもって、来週の復活祭を祝うことができる
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2010/03/28(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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