津田沼教会 牧師のメッセージ
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「復活を待ち望みつつ」(フィリピ3:5~11)内海望牧師
ルカ20:9-19、2010・03・21、四旬節第5主日(典礼色―紫―)
イザヤ書43:16-28、フィリピの信徒への手紙3:5-11

フィリピの信徒への手紙3:5~11
 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。


説教「復活を待ち望みつつ」(フィリピ3:5~11)内海望牧師

 今日は、第二の日課である「フィリピの信徒への手紙」を通して、み言葉を聞きたいと思います。牢獄に繋がれているパウロは、愛するフィリピの教会の状態に心を痛めております。それは、律法主義の侵入です。律法は、神さまが与えて下さったものですから大切なものです。しかし、律法主義者とは、「自分は律法を守っているから、守らない人より神さまに近い」と自分を誇る人々のことを言います。神さまの恵みに頼らないで、自分の業に頼って天国に行こうとしているのです。
 割礼問題から発して、そのような律法主義者がフィリピの教会を荒らしているのです。牢獄にあって、このことを聞いたパウロは何とかフィリピの教会を立ち直らせようとして、この手紙を書いたのです。
 パウロは、ここで、イエス・キリストに出会う前の自分の生き方を語り始めます。律法主義的な見方からすれば、その時のパウロの生き方は紛れもなく「非の打ちどころのない優等生」でした。家柄も、教養も、行動力も抜群でした。
 パウロは、自分の人生を人並みすぐれたものにしようと努力してきました。神さまと、人々の間では尊敬すべき価値のある人生を送ろうとして来たのです。律法の点ではファリサイ派の一員と自覚し、熱心に努力しました。正しいことをしていると信じ、律法の義で他者を裁き、自分の生き方に誇りを持って生きていたのです。その熱意が、パウロを教会の迫害者としたのです。その熱心さは、「パウロは、その弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで(脅迫、殺害の息をはずませながら)、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸教会あての手紙を求めた」(使徒言行録9章)と描写されているほどです。「彼は、真理のためには狂暴になり得るほどに真剣な人間であった」と評されるほどでした。
 先週のたとえに出てきた放蕩三昧に生きることよりも、「自分は正しく生きている」と思い込んで生きることのほうが恐ろしい生き方かもしれません。いつの間にか、自分が神さまのようになって他者を裁くものとなっているのです。しかも、自分は立派に生きていると信じているのです。パウロは、この迫害を含め、自分の行いの一つ一つが神さまの帳簿にはプラスとして記入されるべきものと考えていました。ルターが「もし修道士のうち誰か自分の義によって天国に達しえるとすれば、それは私であった」と述べていることを思い出させるような生き方でした。
 ところが、キリストに出会った今、パウロは「これらを、キリストのゆえに損失と見なすようになった」と語っています。
 この文章を、パウロは「しかし」という言葉で始めています。この「しかし」は非常に重要です。この「しかし」は、恐るべき断絶を示しているのです。これは決して「それにまさって」とか「なおその上に」とかいう比較を表わす「しかし」ではありません。パウロの人生の一切をひっくり返すような全く新しい出来事が起こったことを示すものです。大文字で書かれるべき「しかし」です。
 「損失」という言葉に注意して下さい。これはゼロではなく、マイナスという意味です。キリストに出会って、過去の生き方を御破算にして、心機一転、新しくゼロから出発しましたと言うのではありません。パウロは、過去の自分の誇りとして来た生き方、神さまの帳簿にプラスとして記入されていたすべての業がマイナスであることに気づかされたのです。それらを、今や「塵あくた」と見なしていると言っています。この「塵あくた」という言葉は文字通り「見るのも、触れるのもいやだ」という嫌悪の情を示す言葉です。ゼロではないのです。出来れば消してしまいたいという気持が表れている言葉です。
 どうして、このような変革がもたらされたのでしょうか。それは、キリストの恵みに出会ったからです。「私は、あなたのために死に渡され、私の十字架の血と、復活の力の中に、あなたが御父の子として生き、呼吸する場を創った」とイエス・キリストが語りかけて下さった時、彼は奈落の底に落ちて行く思いがしました。思い上がり、神さまを無視し、人を傷つけて来た私、決して赦されない罪人である私のために祈り、御自分の命さえ与えて下さったイエス・キリストの恵みに満ちた呼びかけを聞いたとき、パウロは自分を支えていたとすべての業が崩れて行くのを感じました。
 信仰深い生き方を装いながら、実は神さま抜きで、自分の正しさ、立派さを誇ってきた自分の姿が明らかになったのです。神さまの恵みに頼らず、ただ自分の正しさにのみ頼り、人々を傷つけていた自分の姿が目の前に現れてきたのです。
 ところが、パウロは、ただそのように醜く、罪深い自分に絶望していただけではありませんでした。7節の「しかし」は、決して律法主義者であり、罪人であるパウロを叩き潰す「しかし」ではありませんでした。そのような罪人パウロの上に惜しみなく恵みを注いでくださるイエスさまの恵みの光であったのです。
 ですから、パウロは、「私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに」と語っているのです。この文章には暗い影は一切感じられません。ただ、キリストの恵みによって生かされている喜びがあるのみです。パウロは奈落の底に落ちて行ったとき、その自分を奈落の底で支えて下さっている主イエスに出会ったのです。
 私たちは誰でも、パウロと同じように、出来れば消してしまいたい過去を持っています。もう一度、まっさらな人生を生きて行きたいと願うことがしばしばあります。「あんなことをしなければよかった」「あんなことを言わなければよかった」と悔恨の情にとらわれます。新しく生きること、復活の人生への願いは私たち共通のものです。しかし、過去は決して消し去る消し去ることはできません。
 しかし(あの大文字!)私たちは、その私たちの苦しみのどん底に、イエスさまの恵みがあることを信じるのです。消し去ることのできない罪の中にある時も、私を支え、私のために十字架に命を捨てて下さったイエスさまの恵みを信じましょう。間もなく、イースター、復活祭です。パウロと共に、死んで蘇る喜び、復活の喜びを共に分かち合いたちと思います。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあってあなたがたの心と思いとを守るように。
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2010/03/21(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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