津田沼教会 牧師のメッセージ
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「我に返る」(ルカ15:11~32)
ルカ15:11-32、、2010・03・14、四旬節第4主日(典礼色―紫―)
イザヤ書12:1-6、コリントの信徒への手紙一5:1-8

ルカによる福音書15:11~32
 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」


説教「我に返る」(ルカ15:11~32)

本日は四旬節第4主日を迎え、主のご復活を祝う4月4日まで、本日を含めてあと3回の主日を残すばかりとなりました。そして、本日与えられている福音の個所、ルカ15:11-32は、まことに、この悔い改めの時、四旬節にふさわしい福音であります。
この譬えは、皆さんもう、耳にたこができる位、聞かされた物語でありましょう。ルカ15章は、罪人や遊女たちとも食事を共にし、親しく交わる主イエスに対して、ファリサイ派の者どもが、なぜそうするのかと、不平を洩らしたのに対して語られた物語であります。 
ルカ福音書15章で、主が三番目になさった譬えであります。
主は言われました。ある人が二人の息子を持っていた、と主は語り始めます。そのうちの年下の方が、その父に向って、願うのであります。私に、与えられるべき財産を分与してください、と。当時の律法では、遺産を兄が三分の二、弟が三分の一与えられたようであります。しかも、まだ、父の生前のことであるいますから、9分の2位であったのかもしれません。父は、若い方の息子の言い分に従って、分与してくれました。弟は、多くの日のたたぬうちに、それらを金に換えて、遠い地方へ旅に出たのであります。
そして、身持ち悪く生活しその財産を無駄使いしてしまいます。で、悪いことには悪いことが重なるもので、生活にも事欠き始めた時に、強力な飢饉がその地方に沿って成ったのであります。この弟は、その地方の市民の一人のところへ雇ってもらいに行くと、その人は彼を豚の世話をさせるために村落へと送ったのであります。豚は、いのしし同様に、ユダヤ人たちにとっては、ひづめが分かれていない不浄な動物であり、豚の世話をするということは、ユダヤ人にとって最低の生活に陥ったことを意味します。
彼は、豚の食べるいなごまめでも、食べて腹を満たすことを願っていましたが、誰も与えてはくれませんでした。その時、この弟は、父の家のパンに豊かに与っている雇い人たちのことを想起しました。そして、我に返って、すなわち自分へとやって来て、正気になって、断言するのであります。私は立って、父のもとに行こう、そして、こう言おう。お父さん、私は天へと、また、あなたの前で罪を犯しました。もはや、あなたの息子には値しません。私を雇い人の一人のようにしてください、と。
そして、すぐに立ち上がって、父の家に向かって進んで行きました。ところが、まだ、大分離れた所にいたのに、彼の父親は、彼を見つけ、駆け寄って、彼の首に向かって倒れ伏し、彼に接吻したのであります。弟は、言います。お父さん、私は、天へと、また、あなたの前で罪を犯しました。すると、父は奴隷たちに言うのです。急いで、一番いい上着を持って来て着せなさい、そして、彼の手に指輪を、また、足には、サンダルを与えなさい、そして、肥えた子牛を連れて来て、屠りなさい。祝って楽しもう。この息子は、死んでいて生き返った、滅びていて、見出された、と言って祝宴が始まったのであります。
で、兄の方は、野にいてやって来て、音楽と踊りが聞こえてきたので、しもべを呼び出して、いったい何事かと質問していたのであります。弟さんが無事に帰って来たので、祝宴を催しているのですと、言うと、怒って家に入ろうとはしませんでした。で、父は出て来て、彼をなだめていたのですが、兄は許せません。私は、こんなに長い年、あなたの命令に従い、守らなかったことは一つもありません。で、あなたのあの息子がやって来ると、子牛を屠られる。
一方、私には、友達と楽しむために、子山羊の一匹も与えませんでした、と。父は言います。私のものは皆あなたのものだ。あなたは、常に私と一緒にいる。で、あなたの弟は、死んでいたのに、生き返り、滅んでいたのに、見出されたのだ。祝宴をして楽しむのは当然ではないかと。
 今は、かつての主イエスの時代のファリサイ派は存在しないかもしれません。しかし、自分は罪を犯していないし、律法をすべて守っていると考えて、罪の赦しと憐れみを与える父なる神に、立ち帰る必要を、考えない人々が大勢います。しかし本当は、すべての人その必要性を持っているのではないでしょうか。
 私が受けた洗礼も、この弟のようなものでした。しかし、神は、主イエスを通して、あらゆる罪を赦してくださいます。そして、私たちが、心から罪を悔い改めて生きるとき、本日の主日の祈りにありましたように、清さと力を与えてくださいます。
この父によって、復権された弟は、私たちすべてのクリスチャンを表しているのではないでしょうか。残された四旬節の時を、私たちは日々悔い改めながら歩んで行きましょう。
                                  アーメン。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。



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2010/03/14(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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