津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「私に何をしてほしいのか」(ルカ18:31~43)
ルカ18:31-43、2010・02・28、四旬節第2主日(典礼色―紫―)
エレミヤ書26:7-19、フィリピの信徒への手紙3:17-4:1

ルカによる福音書18:31~43
 イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。

 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止って、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようみなり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。


説教「私に何をしてほしいのか」(ルカ18:31~43)
 
私たちは、四旬節の第2主日を迎えました。そして、本日は、み言葉の歌として、「このまま」という303番の教会讃美歌を歌いました。「このまま、われを愛し召したもう。罪と汚れかこむとも、深き悩みおそうとも、主のもとにむかえたもう、このまま」と1節では歌ったのであります。これは、まことにルーテル教会らしい讃美歌であります。
 さて、四旬節の46日間、私たちは、罪を懺悔し、悔い改める期間を過ごしています。この厳粛な季節においても、私たちは、ともすると、罪に陥り、本日の主日の祈りにありましたように「あなたの道を離れて迷う者」であります。しかし、「今いちど、み言葉の真理を与えて、信仰を強くしてください」と祈らざるを得ない弱い者であります。
 そして、しかし、日曜日には、福音書の言葉が、この季節にも与えられて慰められ、強められるのであります。
 四旬節2回目の主日、本日与えられています福音は、ルカ18:31-43であります。主の3回目の受難予告であります。見よ、私たちは、エルサレムへと上って行く。そして、人の子、すなわち、主イエスご自身について、預言者たちによって、書かれていることは、すべて実現することになっていると、主は12弟子たちに語り始めるのであります。
 彼は、異邦人の手に渡され、侮辱され、つばきをはきかけられ、鞭打たれ、彼らは、彼、すなわち人の子を殺すであろう。そして、三日目に復活するであろう、と弟子たちに語られるのであります。彼らは、主の言葉が、何を意味しているのか、分からなかった。それらの言葉は、彼らには隠されていて、理解できないでいたというのであります。
 キリスト教は、啓示の宗教であると言われます。私たちのこの世の常識や、人間の理性からは、到底理解できるものではありません。私たちが洗礼に至るまでには、何と多くの人々の支えが必要であったことでしょうか。牧師、宣教師さんたちを始め、信仰の友、先輩を通して、少しずつ洗礼にまで歩んで行ったというのが、私たちの多くの信者の信仰の過程、段階であったのではないでしょうか。
 先日も、関東在住の高校の同窓生が20名ほど集まりましたが、私が牧師になっていることに対して、どういうわけで、牧師になったのかと、30.年以上もたって再会したある同級生であった男子は尋ねてきました。概して、牧師になったと言うと、好意的な反応が多いのですが、ある人たちは、不思議に思い、怪訝な顔をして尋ねてきたりします。しかし、いろいろなつらい体験や求める所があって、牧師になり、あるいは皆さんもクリスチャンになった、あるいは、求道者の方はそれに導かれつつあるのでないでしょうか。
 本日の弟子たちは、イエスの言葉を理解できないでいた、彼らからは、主の受難予告の言葉は、彼らから隠されていたのであります。主イエスの十字架の死と復活の後にようやく彼らは、主の生前の言葉を理解できたのであります。
 しかし、今も私たちは、預言者たちが記した旧約聖書の中に、主イエスの苦しまれるメシアとしての記事を明確にはなかなか捉えることができないでいます。旧約聖書の中に、既に苦しむ救い主としてのメシアが預言されていることを、上からの啓示に頼りながら、理解するように、目が開かれなければなりません。
 さて、後段は、エリコに近づいたときに、ある盲人、これは、バルテマイでありますが、彼は道端に座って、物乞いをしていたのであります。
 群衆が通りを通って行くのを知ったこの盲人は、いったい何が起こっているのかと聞き、ナザレのイエスだと知らされると、大声で叫びます。
 ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さいと。人々が止めようとすると、ますます激しく、ダビデの子よ、憐れんで下さいと叫ぶのです。
 ついに、主イエスは、立ち止まり、その盲人を連れて来るように命じます。そして、主は、聞くのです。「私に何をしてほしいのか」と。
 盲人は、「主よ、また私が見えるようになることです」と答えます。主が、「見えるようになれ」と、言うと、たちまち、見えるようになって、彼に従います。主は「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と答えられます。
 主イエスは、私があなたを救ったとは言われず、「あなたの信仰があなたを救った」といわれるのです。何と謙虚な主のお言葉でしょう。
 盲人は、主イエスの後につき従って、もはや、道端ではなくて、主イエスの行かれる本道をまっすぐに従って行きます。これを見た民衆は、こぞって神をほめたたえたと、本日の記事は終わっています。
 本日の記事のすぐ前には、富める青年議員が永遠の命、神の国を求めながらも、自分の命、自分の生活を捨てきることができずに悲しみながら、立ち去った記事が出ています。
 私たちは、盲人と、富める議員とどちらの道を選ぶのでしょうか。この主の十字架への道行きをおぼえる日々に、主が「あなたは、私が何をするであろうことを望んでいるのか」と私たち一人一人に呼びかけておられます。
 私たちも、神のみ心に適った道を選ぶことを、願う者であります。絶えず、旧約聖書と、新約聖書の中に、主イエスご自身を、更に、主イエスのみ言葉を見出して、日々、立ち直されていく者とされたいと思います。

私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって栄光が世々限りなくありますように。アーメン。


スポンサーサイト
2010/02/28(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。