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津田沼教会 牧師のメッセージ
「垣根を取り払う」(ルカ6:27~36)内海望牧師
ルカ6:27-36、2010・02・07、顕現節第6主日(典礼色―緑―聖餐式)
創世記45:3-15、コリントの信徒への手紙一14:12-20

ルカによる福音書6:27~36
 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者にはもう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」



説教「垣根を取り払う」(ルカによる福音書6:27~36)内海望牧師

「敵を愛しなさい」という言葉が繰り返されています。また「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を求める者には下着をも拒んではならない。」という言葉が続きます。このあまりにも有名な言葉はしばしば誤解されます。キリスト者の言うのは、殴られても抵抗せず、ただじっと我慢し、嵐の過ぎ去るのを待つ、弱々しい卑屈な人間なのかと揶揄されることもしばしばです。正義のために戦うこともしないのかというように非難されたこともありました。
 しかし、「もう一方の頬を向けなさい」という言葉は決して消極的な軟弱な生き方ではありません。そこには、むしろ積極的な意味が込められています。殴られながらも、一歩踏み出して「この人は何を求めているのだろうか」ということを考えなさい、という意味です。ここには、あの黄金律と呼ばれる31節の「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という命令が含まれているのです。殴られっぱなしで我慢するのではなく、その人にとって何が最も必要であるかを考えるのが「もう一方の頬も向けなさい」という言葉の意味なのです。軟弱どころか、最高の勇気を必要とする行き方です。
 ところで、イエスさまは更にたたみかけるように、「自分を愛する人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている」と問いかけられるのです。
 実は、この箇所で、私たちは「愛することとは何か?」と、イエスさまから問いかけられているのです。考えてみると、私たちの愛には垣根があります。私たちは、愛する人を選んでいるのです。イエスさまがおっしゃるように、私たちは、私たちに好意を持ってくれる人を選んでいるのです。イエスさまがおっしゃるように、私たちは、私たちに好意を持ってくれる人、私たちに好い行いをしてくれる人を愛し、私たちに悪意を持っている人は愛さないのです。これが垣根です。相手によって、愛が生まれたり、失われたりするのです。これでは、「人を愛する」と言いながら、実は自分のために人を利用する、利己主義に他ならないのです。だからこそ、イエスさまも厳しく「罪人でも同じことをしているのだ」とおっしゃるのです。このみ言葉は、私たちの心に突き刺さります。しかし、私たちは自己中心的な愛という垣根をどうしても乗り越えることが出来ないのです。

 ここで、日課の初めに帰って「私の言葉を聞いているあなたがたに言っておく」という冒頭の1節に目を向けたいと思います。この個所は、「今、耳を澄まして聴いているあなたがたに」と訳した方がよいと思います。ただ漫然とイエスさまのお話を聞いていると言うのでなく、「耳を澄まして」聴いているあなたがたに話すという内容が原文の意味です。そのように真剣にイエスさまの話に耳を傾けている人々がいるのです。
 「耳を澄ます」という表現は素晴らしいと思います。私たちの耳には絶えず騒音が聞こえてきます。外側からの騒音もあります。しかし、心の内側にも騒音はあるのです。こちらの方が厄介です。外側からの騒音は耳をふさぐことによって聞こえなくなりますが、いくら静かに自分の心を整えようと思っても、内側の騒音は消えません。自己愛にまつわる騒音です。
 「人にどう思われているか」に始まり、恨みつらみ、憎しみ、嫉妬、人を疑う心等々さまざまな思いでいっぱいです。「耳を澄ます」という言葉は、このような自分の思いでいっぱいです。「沈黙とは口を開かないということではなく、聴くことだ」と言った人がいますが、確かにそうでしょう。
 今日の日課は、私たちが何度も目にした箇所です。しかし、「敵を愛しなさい」とか「もう一方の頬も向けなさい」というあまりにも難題が並べられているので、私たちは今イエスさまの前にいる群衆と違って、この個所を脇に置いてしまってはいないでしょうか。しかし、もう一度、心を開き、今初めてイエスさまのみ言葉に耳を傾けている群衆と同じように、耳を澄まして、耳を傾けてみ言葉を聴きましょう。必ず福音が聞かれるはずです。
 すると、二つのことが聴き取れるでしょう。
 第一に、イエスさまが「罪人でも同じことをしているのだ」とおっしゃった時、それはまさに他の人ではなく、私たち自身を指していることに気づかされます。私たちは、イエスさまのみ言葉に聴きながら「愛に生きる」と言いながら、自分の利益を得るために、自分を守るためにどれだけ多くの人々を傷つけて来ただろうかという痛みが心に起こってきます。
 私たちは自分の本当の姿、罪人としての醜い私の姿を自分の力で見出すことはできません。自分で自分をだまし、巧妙に罪を隠してしまい現実の姿に気づかずにすますことも出来るからです。それほど、私たちの心は病んでいるのです。しかし、今、イエスさまの前で耳を澄ませてイエスさまの言葉を聴くとき、自分のことしか考えていない自分の姿を見、
 そこで、二番目の声です。しかし、これこそ決定的なみ言葉です。
 そのように暗い思いに落ち込んでいる私たちに対して、34節以下の言葉が輝かしい光として耳に飛び込んで来るのです。すなわち「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深いものになりなさい」というみ言葉です。
 神さまは、私たちの心を究める方です。私たちの思いと、言葉と、行いの一点一角も見逃さない方です。しかし、神さまは、私たちの罪の数々を私たちの前に積み上げ、到底乗り越えられないような罪の山を築き、私たちを弾劾されるような小さな方ではありません。私たちが、どんなに恩知らずな罪人であっても、神さまと私たちの間を遮る垣根を乗り越え、私たちを愛し、私たちの罪を贖うために御ひとり子まで与えてくださった方なのです。怒りの屋ではなく、赦しと救いの光が輝き出たのです。「あなたは、われらの不義を御前に置き、われらの隠れた罪をみ顔の光の中に置かれました」と詩編も歌っています(ルター訳90編8節)。
 パウロは次のように言っています。「実に、主イエス・キリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んで下さった。・・・私たちがまだ弱かったとき、キリスト・イエスが私たちのために死んで下さったことにより、神は、私たちに対する愛を示されました。」(ローマ5:6以下)
 「敵を愛しなさい」とおっしゃっているのがイエスさまであることに注目して下さい。このイエスさまが、「罪人=敵である私のために、私に代わって」十字架への道を歩んでくださったのです。イエスさまこそ「敵を愛しぬいた方」なのです。このイエスさまの十字架に示される神さまの愛は、私たちの周りに、私たちが張り巡らしていた自己愛という垣根を取り去り、私たちを解放する力があるのです。十字架上で取りなしの祈りをなさったイエスさまは、敵である私のために祈り、命を与えてくださった方なのです。この方が、「さあ、共に歩もう」と呼びかけてくださっているのです。当てにしてくださっているのです。どうして立ち上がらないでおられましょうか。
 罪人であり、恩知らずである私たちのために死んで下さったイエスさまの愛に感謝しましょう。その時、私たちの心は利己主義から自由になるのです。この自由な喜びの中に生きるとき、私たちは「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という言葉が、私たちを萎縮する言葉ではなく勇気を与える光となるのです。
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2010/02/07(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)