津田沼教会 牧師のメッセージ
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「私のあとに来る方」(ルカ3:15~22)
ルカ3:15-22、2010・01・10、主の洗礼日(典礼色―白―)
イザヤ書42:1-7、使徒言行録10:34-38

ルカによる福音書3:15~22
 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打もない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。




説教「私のあとから来る方」(ルカ3:15~22)
 
説教題を「私のあとから来る方」とつけておきましたが、よく読んでみますと、ルカは、「私のあとから来る方」はとは、ヨハネに言わせていません。「私よりもより強い方がお出でになる」と、ここでは、ヨハネは、語っているのであります。
 本日は、主の洗礼日の礼拝であります。この日の福音個所、今年の教会歴ではルカ3:15-22が、聖書日課の出発点にされているということをカトリックの神父さんの聖所日課の説教で読みました。本日の出来事は、洗礼者ヨハネの働きの頂点を示すと共に、ヨハネは、過ぎ去り、主イエスの受けられた洗礼によって、新しい歴史、時代が幕開けするのであります。
 本日の個所に従って、しばらく、ご一緒に考えてみたいと思います。
 本日の個所は、3つの部分に分けることができます。まず、3:15-17であります。それは、「私、ヨハネよりより強い方の到来」と言えましょう。続いて、3:18-20であります。それは、ヨハネの収監という出来事であります。そして、最後は、3:21-22であり、主イエスの洗礼の出来事であります。
 まず、本日の個所は、こう始まります。民衆が待ち望んでいたとき、そして、彼らの心の中で、すべての者たちが、ヨハネがメシアではないかとあれこれ考えていたときに、すべての者たちに、ヨハネはこう語りつつ、答えるのであります。一方で、私は水で洗礼を授けている。他方、私よりより強い方がお出でになっており、私は、彼のサンダルのひもを解く値打もない。彼はあなたがたに聖霊と火で洗礼を授けるであろう。彼は、彼の手に手に箕、ショベルのようなものであったでしょうか、それを持って、脱穀場、あるいは、脱穀したものを清め、穀物は彼の倉へと集め、もみ殻は、消えない火で、燃やすであろうと。この方メシアは、終りの日に、救いと共に、裁きをなさる方でもあるということでしょうか。
 さて、第二の個所では、彼は、他の多くの励ましをなし、民衆に福音を宣べ伝えていたとあります。で、領主ヘロデは、彼の兄弟の妻のヘロディアのことについて、また、ヘロデがなした悪事のすべてのことで、彼によって非難されたので、すべてのことの上にこのことをも加え、すなわち、ヨハネを獄に閉じ込めたのであります。
 洗礼者ヨハネと、主イエスの活躍した時代は、実際には、重なり合っていたのでありますが、ルカは、ヨハネが、水で授ける洗礼によって、その働きのピークに達し、主イエスに洗礼を授けることによって、ヨハネは退場し、主イエスの時代の始まりへと、編集しなおしているのであります。
 そして、第三の部分では、ヨハネが洗礼を授けているのですが、もはや、ヨハネがという名前は出てこないのであります。
 すなわち、こうなっています。で、成ったことには、すべての民衆が洗礼を受けたのち、そして、イエスが洗礼をお受けになったのち、そして、祈っておられると、天が開かれたというのであります。旧約の時代の後、久しく、預言者も現れず、啓示も示されなかったのちに、ついに、主イエスの洗礼において、天が開かれ、神の御旨が示されるのであります。
 そして、さらに、成ったことには、聖霊が鳩のような肉体をもった形でもって、彼に向ってくだるのであります。そして、天から声が成るのであります。どうして、聖霊が鳩のような形なのであったのでしょうか。鳩は、イスラエルをあらわしているのでしょうか。それとも、天地創造の時に、水面をうごめいていたのは、鳩のような霊であったからなのでしょうか。天から霊がくだるということは、旧約聖書では、いろいろな個所で預言されています。
それが、主イエスの洗礼の時に、成就したのであります。そして、天から声が起こることが、成ったのであります。「あなたは、私の愛する息子、あなたにおいて、私は喜んでいる、喜んだ」という天から成った声でもって、本日の記事は終わっているのであります。
 私はあなた、しもべにおいて喜んでいる、そして、霊が天からしもべのうえにくだるという預言は、本日の第一の朗読でありましたイザヤ書42:1にでてきます。
 「見よ、わたしのしもべ、わたしが支える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」この預言が、主イエスの洗礼において実現するのであります。主は、愛する独り子であり、父なる神と独特の関係をもったメシアであります。
 私たちは、このみ子の洗礼に、ペンテコステの聖霊と火の降臨の出来事を通して、与る者とされたのであります。
 私たちが、洗礼に与ったのは、本日のみ子の受けた洗礼に、聖霊と火を通して与ったのであります。
 私たちは、今日から新しく一年を、各自の洗礼をおぼえながら、主イエスも受けられた洗礼を思い起こしつつ、聖霊によって新しく作りかえられ、新しい生涯を歩み出したいものであります。アーメン。
 
人知では、とうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いを、キリスト・イエスにあって守るように。






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2010/01/10(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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