津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主の道を整える」(ルカ3:1~6)内海望牧師
ルカ3:1-6、2009・12・06、待降節第2主日(典礼色―紫―聖餐式あり)
マラキ書3:1-3、フィリピの信徒への手紙1:3-11

ルカによる福音書3:1~6
皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。
 谷はすべて埋められ、
 山と丘はみな低くされる。
 曲がった道はまっすぐに、
 でこぼこの道は平らになり、
 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」


説教「主の道を整える」(ルカ3:1~6)内海望牧師

 先週から教会の暦は新しい年に入りました。アドベント、主イエスがこの地に来られるのを待ち望む季節です。ところが、教会の典礼色は主イエス・キリストの受難を覚えるレント(四旬節=受難節)の時と同じ紫です。紫色は、王の尊厳を示すと共に、悔い改めも表しています。また津田沼教会では、式文もハレルヤ唱に代えて「詠唱」が用いられています。ここには教会が歴史を通して考えて来た深いアドベントの意味があります。
アドベントは、イエスさまをお迎えする心備えをする時です。イエスさまは世界の王、支配者としてエルサレムに入城されました。この方は、裁き主でもあるのです。
ところで、年中行事としてではなく、今ここに主なるイエスさまが来られると知った時、私たちの心はかなり動揺するのではないでしょうか。例えば、今日の第一の日課であるマラキ書を開いてください。そこには次のように書かれています。「だが、彼の来る日に誰が身を支え得るか。彼の現われる時、誰が耐え得るか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ」と主を迎える者の緊迫した心の状態を描いています。彼は私たちを裁く火だと言うのです。しかも、その日は、現在のアドベントのようにカレンダーで知らされた時でなく、「突如として来る」というのです。あるいは、アモス書5章を開くと、「災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって光ではない。」「暗闇であって、輝きではない」と書かれています。つまり、神さまを迎える日は暗闇であると語るのです。私達を火で精錬する恐ろしい方の到来だと言うのです。
今日の福音書の日課を先まで読むと、ヨハネも「蝮の子らよ。差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか」と厳しく、神さまの前に立つことの恐ろしさを伝えています。
旧約聖書には「神さまを見た者は死ぬ」という言葉さえあります。旧約聖書の神さまと、新約聖書の神さまとは同じ神さまです。決して別な神さまがいらっしゃる訳ではありません。神さまはその主権を人間の上に振るわれるのです。ごまかしはききません。私たちは、どこかでこの聖書の言葉を薄めて自分にとって都合のよい神さまに仕立てあげようとすることがないでしょうか。「聖なる主を迎える」ということは、私たち罪人にとって恐ろしい、震えあがらせるような時だと、聖書の人々は証言しているのです。
ところで、ルーテル教会は、他の教会に比べて罪意識において最も深い教会と言われています。それは、ルターが、預言者マラキやアモス、また、ヨハネのように「神さまの前に立つ」ことの意味を、その生涯を通して私たちに伝えたことに大きく影響されているからだと思います。
ルターにとって「神さまの前に立つ」ということは、神さまから打ちのめされるということを意味しました。私たちは「罪」という言葉を道徳的に考えようとします。たとえば、「人の悪口を言った」とか、「隣人にねたみや憎しみを持った」あるいは「愛が足りなかった」など数え上げればきりがないほど罪を思い出します。
そして、「もっと信仰を強くしてクリスチャンとして頑張らなければ」と焦り気味に生きていることが多いのではないでしょうか。何か心がちくちくと痛むような経験をしているのではないでしょうか。ルターも修道院生活の初めの時はそうでした。しかし、焦れば焦るほど、ルターは、自分が、神さまも隣人も心から愛することの出来ない自分本位な人間であることに気づかされるだけでした。自分が絶対なのです。そして、ついに「あれこれの道徳的な罪の問題でなく、全く罪人である自分」ということに気づかされたのです。
パウロも「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」と嘆き、更には「わたしの五体の中にもう一つの法則があって、わたしを罪の法則のとりこにしているのが分かります」と断じ、「わたしは何と惨めな人間でしょうか。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と祈り叫んでいます。マラキやホセアと同様、パウロも神さまの前に震えおののくしかなかったのです。このような経験をルターは預言者たちから、ことにもパウロから学んだのです。
パウロにとっても、ルターにとっても「罪」とは、自分の道徳的な欠陥、あるいは性格的欠点とか、行いの足りなさではなかったのです。道徳的な意味で罪を考えるなら、それは必ず律法主義に陥ります。つまり、他人の罪を数え上げ、非難し、自分を高みに置くという暗い喜びに生きる者となるのです。しかし、ルターは罪人である自分の発見をしたのです。
ルターは完全に打ちのめされました。そこには何の言い訳も出来ず、倒れ伏している罪人がいるだけです。
罪人である自分を発見したとき、ルターは神さまの前に立つ人間となったのです。この時、彼の罪意識は道徳的な基準を越えて信仰的な次元に深まっていったのです。「罪を犯して悩む私」でなく、「罪人である私の発見」こそ、ルターが聖書から、特にパウロの言葉から聴き取った事実であったのです。
「山上の説教」という有名な個所がマタイ福音書にあります。ルカにもマルコにも断片が出てきます。道徳的に読めば、まことに厳しい内容です。たとえば、「右の眼が罪を犯すなら、えぐり出せ。両目があって地獄に行くよりは、一つ目でも神の国に入る方がよい」という言葉があります。これは、文字通りの意味であると思います。たとえではありません。この言葉を聞いた当時の人々も文字通りに読んだと信じます。だから、大部分の人はイエスさまの許から去って行ったのです。彼らは、聖書の言葉を薄めるということはしませんでした。だからこそ、立ち去る者であったのです。すべての道徳的な努力は消え去ったのです。
しかし、パウロは、そして、ルターもイエスさまの言葉から立ち去ろうとはしませんでした。反対に、まっすぐにみ言葉にぶつかり、打ち倒されてしまったのです。その意味で、彼らは神さまの前で誠実であったのです。まさに、「打ち砕かれ、悔いる心」そのものであったのです。このような意味で、罪意識の深さこそがルーテル教会なのです。決して道徳的、あるいは律法主義的な意味で罪を問題にしているわけではありません。ここのところをしっかりと踏まえなければなりません。
「その時」とルターは口を開き始めます。「人間のすべての業が消え失せ、せんかた尽きた時、救いが来た」と。何故、イエスさまが来られたのか、何故十字架に死なれたのかが見えて来たのです。それは、罪人を救うためであったのです。イエスさまは罪のとりことなり、死すべき罪人となった私を救うために、この世に来て下さったことを知ったのです。イエスさまは、決して罪人の敵ではありません。「打ち砕かれ、悔いる心」に復活のいのちを注いで下さる方です。私たちは、ここで何故アドベントに紫色が選ばれたかという理由が分かります。「打ち砕かれた心、悔い改めのしるし」が紫なのです。
しかし、今や私たちには、このキリストの十字架の愛による赦しの愛が、生ける泉として注がれているのです。もはや、主が来られる時は「暗闇の時」でなく「希望の時」、「待ち望む時」となるのです。
今日の第二の日課であるフィリピ1:6を読んでみましょう。実は、その日は神さまの愛のご計画が完成する日だとパウロは言うのです。何故なら、イエスさまの十字架上で息を引き取られる時の最後の言葉は、「成し遂げられた」というものであったとヨハネ福音書は伝えてくれます。だからこそ、私たちはクリスマスを破滅の時としてでなく、救いの完成の始まりの時として待ち望むことが出来るのです。
このイエス・キリストの福音に出会って以来、パウロもルターも自分の努力に頼らず、ひたすらにイエスさまの十字架の愛のみに頼って生きる人間となったのです。「悔い改め」とは「方向転換」という意味です。彼らは、自分の点数に目を注いで生きる生き方から、ただひたすら、イエス・キリストの十字架の愛のみに頼って生きる人間になったのです。イエスさまの赦しの愛に生きる者となったのです。その時から、主を待ち望むことが喜びであり、真の希望となったのです。私たちも自我に死に、キリストと共に生きる者として、復活の喜びに与りたいと思います。
それにしても、私たちはヨハネの「声」が聞き分けられるでしょうか。私たちは多くの雑音に囲まれて生きています。この世の神々が私たちの前に眩しい光を携えて迫って来ます。そのような中でしっかりと耳を澄まし、キリストの声を聞き取り、神さまの前に方向転換した者として、イエスさまを迎える準備をすることこそ、道を整えることではないでしょうか。クリスマスへの道を希望のうちに歩みましょう。アーメン。
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2009/12/06(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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