津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主イエスに選ばれて」(ヨハネ15:1~17)
ヨハネ15:1-17、2009・11・01、全聖徒主日(典礼色―白―聖餐式あり)
エゼキエル書37:1-14、ローマの信徒への手紙6:1-11

ヨハネによる福音書15:1~17
 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」



説教「主イエスに選ばれて」(ヨハネ15:1~17)

本日、私たちは全聖徒主日の礼拝に集められています。そして、与えられている本日の福音は、ヨハネ福音書15章1節から17節であります。この部分は、本年既に復活後の主日においても読まれた個所であります。再び、ここで、この記事が選ばれている意味は何なのか、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 ところで、まず、全聖徒とは、だれを意味しているのでありましょうか。それは、聖者とか、ましてや聖人君子というような、この世から称賛され、尊敬されている一部の例外的存在の人々を指しているのではありません。それは、あるがままの、欠点や弱さをも担っている多くの人々、私たちを指しています。
 本日の祈りにありますように、「主キリストのからだ、唯一の聖なる教会に、(信仰によって)結び合わされ」て信じる者とされたすべての人々を指すのであります。
 津田沼教会では、洗礼を受けて、そのような者とされた、信仰の先輩の兄弟姉妹方と共に、生前、残念ながら、洗礼を受けて主イエスこそ救い主と信仰告白をするまでには至らなかったご両親や伴侶のような方々をも共どもに思い起こし、きっと天国から励ましのメッセージを送っておられる親しい方々をも思い起こす時としても、これまでは毎年一度の召天者記念礼拝を守っているのであります。
 さて、本日の福音、ヨハネ福音書15章1節から17節は、大きく二つに、すなわち、15章1節から8節までと、15章9節から17節までとに分けて考えることができましょう。
前段で主は、私は、まことのぶどうの木、父は農夫であると言われるのであります。ぶどうの木は、み民イスラエルを象徴するものとして、旧約聖書では考えられてきました。しかし、彼らは、しばしば良くないぶどうの木となってしまい、神から離れて生活していったのであります。
それに対して、主は、私こそは、新しい神の民をもたらす真実のぶどうの木であり、父は、実をもたらさない枝は取り除き、実をもたらす枝はもっとそうなるように、手入れをなさる園丁であると言われるのであります。私たちは、主イエスにとどまるならば、良い実をもたらし、主の内にとどまらなければ、自分からは何もできない弱い存在であります。主を離れては、何もできない枝であり、良い実をもたらさないならば、私たちは投げ捨てられ、枯れ果て、燃やされてしまう無用の長物となってしまうのであります。
 そして、主は、私にあなた方がとどまっているならば、そして、わたしの言葉にとどまっているのなら、何でも私の父に願いなさい。そうすれば、それはあなた方に成るであろうと言われます。そして、私たちが豊かに実をもたらすならば、それによって、私の父は栄光を受ける、人々から尊ばれることになろうと、約束されているのであります。
 次に、後半では、だれであれ、その友のために、命を差し出す、直訳すると「命を前に置く」それ以上に大きな愛をだれも持っていないと言われます。主イエスは、私たちを友と呼ばれます。これは、愛する者たちという意味であります。
 なぜならば、しもべは、その主人が何を望んでいるか知らないが、私は、あなた方に父から受けたことをすべて知らせたからであると言うのです。
 そして、主は、言われます。あなた方が私を選んだのではない、かえって、私があなた方を選んだのであると。私たちは、自分の決心で洗礼を受けたと思っている人もおられるでしょう。しかし、私たちの決断よりも前に、主が、私たちを選んでくださっていたのであります。悲しいこととか何かがきっかけとなって、洗礼に至ったと思いがちですが、先に主が、12使徒たちと同じように一方的に、主導権をもって計らっていてくださったのであります。
それは、すべての信者となった人に、共通して言えることなのであります。そして、洗礼がまだの方も、今も主は選ぼうとされているのであります。
 そして主は、私が、あなた方を任命したと言われます。これもあなた方を「置いた」という意味の言葉であります。それは、あなた方がこの世界へと出て行って、豊かに実をもたらすためであり、その実がずっと残るためであると言われ、あなた方が、私の名において祈り、望むものは、何であれ、父が与えるであろうと約束されるのであります。そして、最後にこれらのことを私はあなた方に命ずる、すなわち、あなた方は、互いに愛し合いなさいと言われるのであります。
 私たちは、弱さをになった、そしてまた、罪にまみれた存在であります。しかし、互いに愛し合うようにという唯一の主の命令を私たちは与えられています。私たちが、教会で愛し合い、赦し合うということが、世が私たちが、キリストの弟子であることを知るようになる唯一の道であると主は、地上での弟子たちとの別れに際して、弟子たちに託し、お命じになっているのであります。そしてそれが、私たちが出て行って、良い実を結ぶということであります。
 先に天へと召された人々に倣って、主から選ばれた恵みを思い起こしつつ、この危険と困難に満ちた地上での生涯を、私たちもみ言葉と共に歩んでまいりましょう。その時にこそ、私たちは、喜びで満ち溢れることでありましょう。祈ります。
  天の父なる神さま。
 本日は、先にあなたのもとに召された人々を偲んで、あなたのもとに集められています。どうか、私たちが、キリストにつながり、生涯の道程を歩んで行くことが出来ますように、憐れんで下さい。私たちが、み子によって選ばれ、弟子とされていることを忘れずに、信仰の道を雄々しく歩ませてください。先に召された人々と天国で再会できることを信じ、希望のうちに、津田沼教会を通しての信仰生活が全うされますように。
                    キリストによって祈ります。アーメン。

平和と信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。




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2009/11/01(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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