津田沼教会 牧師のメッセージ
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「天使の出番」(マタイ2:13-23)
2004・12・26、降誕後主日
イザヤ63:7-9、ガラテヤ4:4-7、マタイ2:13-23

本日の福音:マタイ福音書2章13節~23節
占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
「ラマで声が聞こえた。
激しく嘆き悲しむ声だ。
ラケルは子供たちのことで泣き、
慰めてもらおうともしない、
子供たちがもういないから。」
 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰ってきた。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

説教「天使の出番」 渡辺純幸牧師(主任牧師)
 2004年は、皆様にとってどんな年でしたでしょうか。楽しいことも辛いこともあったのでしょうか。
 ヒルティの「眠られぬ夜のために」の第一部の10月23日の項に、「朝、目がさめて直ぐ、今日もまた自分が負わなければならぬ十字架のことを思うと、それが自分にはあまりにも重いように思われることがしばしばあろう。・・・・・しかし、今日も我々を目覚めさせてくださった神の恩寵を思い、また神の国のために果たすべき奉仕について考えるならば、活動的な人間は、そのために自分がなすことができ、かつ許されていることがらを心に描いて、喜びの感情が湧き起こり、それが一日中持続する」とあります。
 本日の聖書のヨセフとマリア、そしてイエスの置かれた状況をみるならば、今日もまた負わねばならない十字架のことを思うはずなのにそうではないようです。
 聖書には、ヨセフとマリアとイエスのいわゆる聖家族がエジプトへ避難し、ヘロデが死ぬまでそこに留まったという記事、ヘロデが二歳以下の幼児を一人残らず殺させた記事、そしてヘロデ王が死に、治世が代わり、聖家族がまたユダヤの国に帰ってきたという三つのお話が記されています。
 クリスマスをお祝いしたその直ぐ後、生まれたばかりの救い主イエスに、彼の生涯を預言するかの如き波瀾万丈の出来事が起こるのですが、これらはみな預言者の言葉が実現するためであると聖書は告げるのです。
 このことは何を意味するのでしょうか。現代キリスト者の霊性の教師として広く世界に認められ尊敬されていたヘンリ・ナーウェン神父は、著書でこんなご自身の体験を記しています。第2次世界大戦が終わる年、父は世話をするようにと少年に子山羊を渡しました。13歳のナーウェン少年はその山羊をとてもかわいがりました。何時間も時間をかけて山羊のためにドングリを集めたり、遠くまで散歩に連れていったり、毎朝目が醒めると餌をやったり、それはそれは無二の親友のように大変かわいがりました。
 ところが、ある朝早く羊小屋に行ってみると、囲いの中は空っぽで、盗まれたのでした。神父は後にも先にもこのときほど激しく泣いたことはなかったといいます。悲しみのあまりに、両親はどう慰めてよいか分かりませんでした。戦後、何年も経って食べ物にも不自由しなくなった頃、父は神父の家で働いていた庭師が子山羊を盗んで、飢えた彼の家族を食べさせたことを話してくれました。
 父は庭師が盗んだことを知っていましたが、ナーウェン少年の悲しみを知っていながら、一度も庭師を問いただすことをしなかったのでした。ナーウェン神父は、「人を思いやる愛とは何か」を教えてくれたのだとしみじみ思うと言われます。
 さて、本日の出来事はすべて「預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」とあります。この言葉は、本日の箇所だけでも三回も使われております。まず、ヨセフに天使が夢でエジプトへ逃げるように告げた後に、「『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」とあります。これはホセア書11章1節の言葉であります。
 次には、ヘロデが二歳以下の男の子をことごとく殺したときにも、「預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから』」と、エレミヤ書31章15節の言葉であります。
 ヘロデ王が死に次の代になり、ヨセフとマリア、イエスの聖家族はガリラヤの湖のそばのナザレの町に住むことになったのですが、そのことについて同じくイザヤ11章1節の言葉『彼はナザレの人と呼ばれる』が、「預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」とあるのです。
 本日の箇所だけではありません。クリスマスに入って際立って、この言葉が多く使われていることに気がつきます。ところで、これら預言者たちをとおして実現する出来事はどれをとっても、私たちには、極めて不思議というか納得しがたい出来事であります。
 例えば、神のみ子の誕生と言うのであれば、もっと素晴らしい出来事として、華やかでそれなりのもてなしで過ごせないものだろうかと考えるのですが、聖書は決してそのような形では語っていません。
 それどころか、私たちにとって不条理というか、あまりにも惨めで、悲しい出来事として映るのです。そしてただ「預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」と一言で片付けられてすべてが終わってしまうのです。
 私たちは往々にして、自分たちにとって不条理と思えるようなことを、そう簡単に受け入れることはできないものです。ましてや危険を伴うようなことは、なお受け入れることができないのです。そして人の人生を一つの歴史と考えるならば、マリアにはマリアの歴史があります。ヨセフにもヨセフの歴史があるはずです。その歴史は自分の決断で切り開き、進んで行ってもよいはずでした。そのとき私たちは自分の力で立ち、自分の力で決断し、自分の力で切り開いて行くかに見えます。
 ヨセフのように何一つ彼の肉声は聞かれず、天使のみ告げに自分の主体性を置くとき、何の意味があるかと問いたくなるかも知れません。ところがヨセフは違ったのでした。彼はこれまで何ひとつ言葉を発していません。
ただ彼の方向の決断というか、そのようなものは、いつも夢を通して、それも天使が現れて告げるのです。
 アドベントの中で、婚約していたマリアが身重になったときの苦しみの行動も、やはり夢を通しての天使の語りかけでありました。本日の聖書も同じように、ヨセフは夢の中で見た事柄を実行に移したのでした。驚くほどに、ヨセフは夢で語られたことをその通りに実行していくのです。自分の人生をマリアとイエスの歴史に組み込んで生きるのでありました。一方、マリアも突然の受胎告知から始まる不思議な出来事に対して、自分の意志や決断もあったでしょう。しかし、彼女も自分を、イエスの人生という歴史に組み込んでいくのでした。
 これがヨセフとマリアの姿でした。これはとりもなおさず、すべてを神さまに委ねた姿と言えます。ここで理解すべきことは、イエスご自身に起こることは、何も場当たり的に遭遇するのではなく、すでに神さまは、それをも含めて決断し、神の意志が全うされるという「神さまの計画」の中に組み入れられたものなのだということです。そしてその計画は、旧約時代より約束されたことだということです。預言者たちをとおして言われていたことが実現するということにおいては、どのような出来事も意味のない事柄は何一つないということでしょう。
 換言するなら、幼児虐殺、エジプトへの逃避行など極めて困難なことも、神さまのご計画はそれらをもすべて包み込んで、貫かれているということなのです。私たちには一つひとつの不思議にも思える事柄も、実は、その背後には神さまの思いと、神さまの意志が働いているということなのです。そして、それらの神さまの計画は、天の使いによって現わされるようですが、私たちには気づくことなく過ごすことが多いのかも知れません。きっとこの夢に現れる天使の声を、私たちは間違いなく聞いているのです。けれどもヨセフのように、すべてを神さまに委ねることができる人でしか神さまの声を、み心を聞くことができないのかも知れません。
 天使の出番は、まさに大変なときにこそ私たちに迫り、現れて下さっているのです。あのナーウェン神父の父が少年の神父には理解できないことを思い、時をとおして知らせる思いやりの姿は神の計画にも似て、その不条理に思えることが、実は最もよいものへと変えられていくものであることを教えています。
 それは、預言者によって語られた出来事であり、また天使のみ告げをとおして知らされる思いです。ヨセフがそうであったように、またマリアがそうであったように、私たちも自分の命も人生も神さまの中に組み込まれたとき、初めて十字架の重荷が軽くなり、神さまの恩寵を強く感じるのです。すべてを知り尽くされた神様の出番であり、天使の出番なのです。
 私たちも、迫り来る困難な出来事にも、ヒルティが「・・・・しかし、今日も我々を目覚めさせてくださった神の恩寵を思い」と、神さまに感謝したように、神さまの配剤に感謝して、2005年の新しい年を迎えたいものです。
 

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2004/12/26(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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