津田沼教会 牧師のメッセージ
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「神による男女の創造と子供の祝福」(マルコ10:1~16)
マルコ10:1-16、2009・10・11、聖霊降臨後第19主日(典礼色―緑―)
創世記2:18-24、ヘブライ人への手紙2:5-9

マルコによる福音書10:1~16
 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。



説教「神による男女の創造と子供の祝福」(マルコ10:1~16)
 
このところ、私たちは、エルサレムに向かう途上での主イエスのお言葉や、出来事をマルコ福音書に沿って読み続けています。本日の記事は、「そこから出て、ユダヤの地方へと、ヨルダン川の向こうへ」と進んでいる主イエスの一行の旅路での出来事が記されています。 
マルコ10:1-12と10:13-16の二つの出来事が本日の福音であります。離縁、離婚の問題と、子供を主が祝福された記事からなっています。結婚と子供についての記事であり、家庭の問題がまとめられていると見ることもできます。主がエルサレムに向けての旅の途上にあるとき、人々が集まって来たので、主はいつものように、教えておられたのであります。主イエスの人々をひきつける魅力が示され、人々に教えるマルコの主イエス像が描かれています。
ユダヤの地方とヨルダン川の向こう側の地へと行かれたとありますが、旅行の順序としては逆になっています。マルコは地理に正確であることには無頓着で、主の教えの魅力に焦点を置いています。
するとそこに、ファリサイ派が、主を試そうとして、やって来て質問するのです。「離婚することは、許されているでしょうか、どうでしょうか」と。主は、即答はなさらず、モーセは何と書いているのか、命じているのかと彼らの聖書の読み方を問い返されます。すると、彼らは、モーセは離縁状を書いて女を行かせ・去らせることを認めましたと答えます。主は、それに対して、モーセはあなた方のかたくなな心に向かって、離縁状を書いて妻を離婚することを認めたにすぎないのだ。
創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった。従って、人は父母を後に残して、男は女に固着するのである。もはや、夫婦は一体であって一つの肉である。従って、神が合わせたもの、これは、一つのくびきを負わせたという意味ですが、それを人が軽々しく離してはならないと創世記を引用してお語りになりました。
原則的には、離婚を禁じたのであります。現代の複雑な状況の中では、離婚も許されるとも考えられますが、神にかたどられて造られた男女の人間は、本来一夫一婦であることを主は創世記の記事から求められるのであります。前半の後段では、家に入って弟子たちが主にそのことについて質問したのに、答えて教えられます。妻を行かせて、他の女と再婚する者は、妻に対して姦淫の罪を犯すのであり、また、妻が離婚して他の男と再婚するのは、姦淫の罪を犯すことになるというのであります。離婚は認められようが、再婚は原則として禁じられていると主は弟子たちに教えられるのであります。現代では再婚も場合によっては認められるように考えられます。しかし主は原則としては、神の創造による男女が一つとされた結婚の神聖さを見失ってはならないと言われるのであります。一方がなくなった場合の再婚については主は認められているようでありますが、1対1ということが原則であり、夫婦はひとつのくびきにつながれているとお考えになられていたのであります。
さて、後半の1013-16は、子供の祝福についてであります。子供は、悪や罪から潔白であるというわけでは必ずしもありません。しかし、子供、特に12歳くらいまでの子供が考えられていますが、主の祝福の力に与りたい人々が、子供を連れて来て触ってほしいと思ったのであります。
しかしそれを見て、弟子たちは叱り、妨げようとする。ところが主はそれを、珍しく憤られ、私のところに来るのを妨げてはならないと言われ、神の国はこのような者たちのものであるといわれ、子供たちを抱き上げて両手を頭にのせ、祝福なさるのであります。子供は、親や大人に、また、神に全信頼を寄せています。彼らは、お金を持たなくても、平気であり、また、謙虚なもの、自分が小さい無力な者であることを知っています。
主は、私たちキリストの弟子たちが、地位争いをやめて、互いに仕え合うものになることが、神の国にはいるためには無くてはならないことだと示されるのであります。私たちも、そのような神の前に低く小さい者であり、幼子のように、主イエスと父なる神に全信頼を寄せて歩んでいきたいものであります。アーメン。

平和と信仰を伴う愛が父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。

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2009/10/11(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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