津田沼教会 牧師のメッセージ
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「キリストの弟子として」(マルコ9:38~50)
マルコ9:38-50、2009・10・04、聖霊降臨後第18主日(典礼色―緑―)
民数記11:24-30、ヤコブの手紙4:13-5:8

マルコによる福音書9:38~50
 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身のうちに塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

説教「キリストの弟子として」(マルコ9:38~50)

本日の福音は、マルコ9:38-50であります。先週の続きとして、誰が、弟子たちのうちで一番偉いのかというテーマのエピソードの後に、本日の個所が与えられています。まず、ヨハネが主のもとに、急に登場し、戻って来て言うのであります。先生、あなたの名の上に、悪霊どもを追い出している者を見ましたが、私たちに従おうとしていなかったので、私たちは、彼を妨げようとしましたと。すると、主は、答えられるのであります。あなた方は、彼を妨げてはならない。なぜならば、だれも、私の名の上に、力ある業を行い、そのすぐ後に、私を悪く言うような者はいないからであると。そして、私たちに反対しない者は、私たちのための者である、と答えられたというのであります。
これは、マルコの時代の教会における状況を反映して、記された記事であるのかもしれません。後から来る者たちや、後から教会に来て信者たちを揺れ動かすようなる者にも、教会は寛大に迎え入れる用意がなければならないことを、その時代の教会の人たちが、さまざまな体験を通して思い知らされ、異邦人を称賛し、よいサマリア人のたとえを語られた主イエスの寛大さから、導き出した伝承か何かであったのでしょう。
さて、今、私たちの教会では、11月3日のバザーに向けて準備に入っています、チラシを見て、教会に電話をかけ、寄贈品を持って来てくださった方が、既に30人近くいます。彼らの中から、教会に関心を持ち、やがていつの日か信仰へと導かれる方がおられるかもしれません。私たちは、主が不思議な悪霊払いにも寛大であったことを常に思い起こしたいものであります。
マルコ9:41から、残りの9:50節までを、弟子たちへ主が残した賢明なお言葉としてまとめて考えることができるでありましょう。
まず、9:41では、最初のエピソードに続けて、主は、なぜならば、あなたがたがキリストの者であるという名において、あなた方に、コップに一杯の水でも飲ませてくれる者は、まことに、あなた方に語っておくが、彼のその報いを失うことは決してないと言われています。私たちに、キリスト者だとういうので、水一杯でもくれる人に対しても、神である主イエスご自身、満足であられたし、私たちも同じように、キリストを宣べ伝えるときに、相手が一寸の好意でも示してくれたならば、それで満足としなければならないのであります。
次に、主は、言われます。私へと信じているこれらの小さい者の一人を、私への信仰から離れさせる罪に陥れる者がいるならば、そんなことになるよりもはるかに彼は、その喉にろばによって引き回される大きな石臼を引っかけられて、海、ガリラヤ湖に投げ込まれるのが、良いとまで言われるのであります。
私へと信じている小さな者たちとは、謙虚な低い信者のことであります。先週の終りの記事9:37では、私の名の上に、このような者の一人を受け入れる者は、私を遣わした方を受け入れるのであると言われて、そこでは、子供を指したのでありますが、ここでは、信仰の弱い者や取るに足りない低い立場の信者を指しています。私たちは、そのような兄弟姉妹を決して躓かせないように、主によって警告されているのであります。
さて、今度は、今主の言葉を聞かされている私たち、キリストに従う弟子自身に対して、主は言われるのであります。あなたの片方の手があなたを不信仰という罪に陥らせるならば、それを切って捨ててしまいなさい。あなたは、体が不自由になっても、命に入るほうが、燃え尽きない火のゲーナへと投げ込まれるよりも、あなたにとってはそのほうがよい。また、あなたの片方の足が、あなたを不信仰の罪へと陥れるならば、それを切って捨てなさい。体が不自由になってでも、命に入る方が、ゲーナへと、あのゲン・ヒンノムのごみ焼き場、終りの日に、呪われた者たちを待ち受けている場所へと投げ込まれるよりもよい。また、あなたの片方の目があなたに罪を犯させるよりは、もう一方の目になってでも、あなたにとって神の国に入るほうがよい。すなわち、あなたは、魂において滅びるよりは、命、神の支配、神の主権の領域に入る方が、地上のはかない、束の間の喜びに甘んじるよりも、幸せであると主は警告なさっておられるのであります。
そして、9:49-50が与えられているのであります。すなわち、なぜならば、すべての人は火で塩味がつけられるであろうからである、と続くのであります。この火は、この福音書を読んでいた当時のローマの教会の人々にとっては、殉教や迫害、患難を思い起こさせたでありましょう。現代の私たちにとっては、試練や忍耐、粘り強さの必要を意味するでありましょう。そして、続きます。塩は良いものだ。しかし、塩が塩気を失ったら、何によって、あなた方はそれに塩味をつけるだろうかというのであります。塩が塩気を失うということは、死海の岩塩などを考えているのでありましょうか。そのような場合には他のものと混ざって使えなくなることがあるそうであります。
そして主は、最後にこう言われるのであります。あなた方自身において塩を持ちなさい。そして、互いにあなた方は平和を保ちなさいと。
私たち自身において塩気を持つとは、健全な常識やキリスト者としての忍耐や根気を持つことや周りの人々への慈悲の心を持つことでもあるとも言えましょう。キリストに従って自己犠牲の生活をし、一時的なこの世の生活に甘んじるのではない、滅びず、朽ちることのないまことの真珠を求めていく生き方であります。そしてそこから、互いに和らぐことが生まれ、だれが、自分たちのうちで一番偉いかといった議論に生きていくのではなく、そこから初めて、互いの奉仕への生活、霊的に平安な暮らしが保証されると主イエスは、今も語っておられます。祈りましょう。
天の父なる神さま。  
私たちは弱く、困難にあって、容易に倒れ伏す存在であります。けれどもあなたは、この日もみ言葉を通して、堅固な信仰に生きる道を示して下さいました。どうか、私たちが、小さい者ですが、絶えずみ言葉に頼って、これからも滅びることのない命を歩むことが出来ますように憐れみ、導いてください。キリストによって、アーメン。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。

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2009/10/04(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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