津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「真の命を得るために」(マルコ8:27~38)
マルコ8:27-38、2009・09・20、聖霊降臨後第16主日(典礼色―緑―)
イザヤ書50:4-11、ヤコブの手紙2:1-18

マルコによる福音書8:27~38
 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』という人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」



説教「真の命を得るために」(マルコ8:27~38)

私たちは、先週までいろいろな方面に出かけられ、異邦人の女の願いを聞き入れてかなえてやったり、おそらく、これも異邦人であったとも考えられる男の人の耳と口を自由にしたりする奇跡をなさる主イエスのみ業を読み進んで来ました。
本日は、マルコによる福音書8:27-38が与えられています。本日の福音の部分から、主は十字架への道を歩み始める、いわば、分水嶺とも言えるのが個所であります。主イエスの一行は、本日の記事では、フィリポ・カイザリアの村々へとやって来ます。パンの神、豊穣の神が盛んに信じられていた異教の地方であります。ここで、主は、弟子たちに、「人々は、私を何者と言っているか」と主イエスの方から先に、質問なさるのであります。当時は、ラビに対して、その弟子たちの方から質問するのが普通でありましたが、ここで、主は自ら、弟子たちに質問なさるのであります。彼らは、「洗礼者ヨハネだ、彼が生き返ったのだとも、エリヤだとも、また預言者たちの一人だという者もいます」と答えます。
それに対して、主は、「では、あなた方は私をだれだというのか」とこの異教の地で重ねて尋ねられるのであります。ペトロが、「あなたは、メシアです」と答えます。当時の人々はメシア、キリストが来られるのを期待していたのであります。しかし、それは、政治的に自分たちをローマの圧政から解放してくれるダビデ王的なメシアのことを、ペトロも考えていたでありましょう。それに対しては何もお答えにならずに、ただだれにも彼のことを話してはならないと口止めされるのみでありました。
それから、主は教え始めるのであります。「人の子は、律法学者たちや祭司長たち、長老たちによって、無価値と宣言され、拒まれることになっている。また、彼らは彼を殺すことになっている。そして彼は殺された後、三日後に、起き上がることになっている」と。すると、ペトロが道のわきに連れて行き、主をいさめます。すると、主は、「サタン、私の後ろに引き下がれ」とペトロを叱り、「あなたは、神のことを思わず、人のことを考えている」と言われるのであります。そして、弟子たちと群衆を呼び寄せて言われるのであります。「だれでも、私の後に従って来たい者は、自分を否定し、あるいは、自己放棄をして、自分の十字架を担って、私について来るように」と言われ、「なぜなら、自分の命を救おうと欲する者は、それを失い、私のために、そして、福音のために、自分の命を失う者はそれを救うであろう」と言われるのであります。自分の命、魂を、自分の欲望や熱情のために用いようとする者はそれを失い、主イエスのために、また、福音のために失う者、すなわち、神のご意志に従って、苦難を負い、従順に生きる人は、彼の命を救うであろうと約束なさっているのであります。そして、「全世界を得ても、自分の命を失っては何の益になろう。自分の命と引き換えに何を人は与えるであろうか」と言われます。
そして、「この姦淫と罪の世代において、私と私の言葉を恥じる者は、人の子も父の栄光において、天使たちと来る時に、その者を恥じるであろう」と言われているのであります。
私たちは、主イエスと出会った初めから、主イエスが、十字架につく苦しむメシアであり、私たち弟子たちも同じ十字架を背負って歩まねばならないことを理解していたわけではありません。しかし、徐々に、多くの信仰の先輩や牧師、宣教師たちなどに導かれながら、真実のメシア、キリストのあり方を理解して来ることができたのであります。
そして、今度は私たちが、周りの人々に主イエスの十字架の死と復活の意味を宣べ伝え、主日の祈りにありましたように、終りの日に、救いの民へと共どもに、招き入れられたいと願うものであります。

わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。











スポンサーサイト
2009/09/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。