津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主イエスにつながる者の報い」(マタイ10:34~42)
マタイ10:34―42、2005・07・17、聖霊降臨後第9主日(緑)
エレミヤ書28:5-9、ローマの信徒への手紙6:15-23

マタイ福音書10:34~42
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。
 人をその父に、
 娘を母に、
 嫁をしゅうとめに。
こうして自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

説教「主イエスにつながる者の報い」(マタイ10:34~42)
 
聖霊降臨後第9主日を迎えました。このところ、3回にわたって与えられている福音書の箇所は、マタイ10章であります。マタイによれば、主が12使徒を選び、派遣したときに、語ったとされる主の言葉が、10章の5節から42節までにわたって、まとめられているのであります。
 それはくりかえし、くりかえし、彼らを待ち受けている苦難と迫害を予告し、弟子たちを警戒させ、あるいは、前もって予告しておくことによって、弟子たちがうろたえないようにさせる意図で主はこのように、三つの部分に渡って語り続けておられるのであります。そして、本日の部分は、特に今でいえば、牧師や宣教師や、伝道師、あるいはマタイがこの聖書を書いた当時、たくさんいたと考えられる巡回教師などに限らず、すべての弟子たち、信者たちにも当てはまる苦難、迫害、拒絶などを、主が見越しておられて語られた警告、あるいは、慰め、励ましのお言葉として受け取ることができるものであります。
 本日の箇所で、まず、主イエスは、「私が来たのは、平和を地上にもたらすためだとあなた方は考えてはならない。そうではなくかえって剣を投ずるために来たのである」と語られています。主は、平和の君としておいでになられたのではなかったでしょうか。しかし、まず、この世界で、まことの信仰が確立されるためには、争いや、対立、分裂も避けられないのであります。神の国が実現するために、キリストは、剣を、あるいは、火をこの世界に投ずることになるのであります。私たちはそのことを予期し、自分たちによっても、その同じことがもたらされることを予め知って、備えなければならないのです。
主は、「私は、父をその息子に対して、母をその娘に対して、姑をその嫁に対して分裂させるために来た」といわれ、「そして人の敵どもは、その家の者たち・身内どもである」と旧約の預言書ミカ書7章6節を引用していわれます。 
さらに、主は言われます。「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私を超えて、息子や娘を愛する者も私にふさわしくない。自分の十字架を背負って私の後について来ない者は私にふさわしくない。」また、「自分の命を見つけようとする者は、それを失うであろう。しかし、私のために自分の命を失う者は、それを見出すであろう」と。
 私たちは、家族に対して、自然に愛情を持つものであります。そしてそれ自体は何も悪いことではありません。けれども、主イエスの弟子として従っていくことは、そのような本能的な愛情、絆に対しても、戦いをもたらすものであります。主イエスは、私たちが自己を追求することもやめなければ、そしてさらには、自分を憎む者でなければ、私の真の弟子ではありえないと、すべてのキリスト者に前もって、警告なさっているのであります。主イエスを宣べ伝えていくにおいては、身近な家族の中、親戚の中においても、いや、むしろそこにおいてこそ、軋轢が生じ、戦いがあることを、私たちは前もって予期するようにと、主イエスによって、備えさせられるのであります。信仰とはルターが言った通り、戦いであります。
 しかし、最後の10章40節から42節においては、私たち、すべてのキリスト者は、主イエスの口を通して、大きな慰めと励ましを与えられています。主は言われます。
 「あなたがたを受け入れるものは、私を受け入れるのであり、私を受け入れるものは、私を遣わされた方を受け入れるのである。預言者の名へと預言者を受け入れるものは、預言者の報いを受け取るであろう、また、正しい人を正しい人の名へと受け入れるものは、正しい人の報いを受け取るであろう。あなたがたによく言っておくが、弟子へとその小さい者の一人に冷たいものの一杯だけでも飲ませてくれるものは、その報いを失うことはないだろう」と。
 この「受け入れる」というのは、預言者、正しい者、さらには小さい者たちである弟子たちを「もてなすこと」と弟子たちの「宣教・使信を信じること」のふたつを意味しています。私たちは、自分のおかれたそれぞれの場所で、何も巡回教師たちのように、あるいは、12使徒たちのように宣教そのものを使命とするのでなくても、彼らをもてなしたり、彼らの宣教あるいは説教を信じることで、同じ報いを与えられるのであります。あるいは、さらに、私たちキリスト者をもてなしてくれる人々も、私たちと同じ報い、すなわち、天の国でのご褒美、報酬に与るということも言えるかもしれません。私たちがキリストの弟子であるという理由で、私たち小さい者に、冷たい一杯の水だけでももてなしてくれた人も、私たちと同じ報いに与るとしたならば、私たちはどのような苦難、迫害、憎しみ、拒絶にであっても、主イエスキリストを宣べ伝え、証しせずにはおれないのではないでしょうか。私たちすべてのキリスト者が、自分の持ち場、家庭や職業、それぞれのおかれている状況の中で、宣教することができるのであります。主イエスのこれらの警告と励ましの言葉に押し出されて、日常生活の中で、この1週間も主イエスを証ししていきたいと思います。
 天の父なる神さま。あなたの送られた主イエスの小さい弟子たちである私たちを顧みてください。私たちは、主イエスの弟子である人々をもてなし、また、信じていくことを通しても、その人たちと同じ報いに与ることができます。宣教の最前線にある人たちのために祈ることをも覚えさせてください。また、すべての人が主イエスを信じることが出来るために、私たち小さな者をそれぞれの持ち場、持ち場へとここから押し出してください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
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2005/07/17(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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