津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「湖上を歩まれる主イエス」(マルコ6:45~52)
マルコ6:45-52、2009・08・23、聖霊降臨後第12主日(典礼色―緑―)
ゼファニア書3:18-20、エフェソの信徒への手紙4:1-16

マルコ6:45~52
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。



説教「湖上を歩まれる主イエス」(マルコ6:45~52)
 
聖霊降臨後第12主日の福音は、先週のマルコ6:30-44に続くマルコ6:45-52であります。5つのパンと2匹の魚を裂いて、5000人もの群衆を満腹にすることができた。それに続いての記事であります。
 主は、ベッサイダに向かって、向こう岸へと、弟子たちを強いて乗船させ、先に行かせたのであります。そして、群衆と別れを告げ、ご自身は山へと、あるいは、丘とい言った方がいいかもしれませんが、そこへ祈るために一人、出て行かれたのであります。
 そして、夕方になったとき、舟は海の、すなわち、ガリラヤ湖の真ん中にあり、地の上には主イエスお一人がおられたのであります。
 そして、彼らが、進むにおいて、無理をしている、すなわち、漕ぎあぐねているのを、御覧になったとき、主は、明け方ごろ、夜の見張りの第4時ころ、つまり午前3時ころに、海の上を歩きまわって、彼らの方へと行かれ、そして、彼らのそばを通り過ぎようとなさっておられたのであります。
 ご自分が、海、すなわち、死をも支配する神であることを示されようとしていたのか。あるいは、むしろ、弟子たちのご自分に対する信仰を試そうとしておられたのかも知れません。
 弟子たちは、主を見て、幽霊だ、幻影だと考えて、思わず叫び声をあげたのであります。
 先だって、福音の個所として出て来た、舟の中で、嵐にあっても眠っておられたときとは違って、彼らは、自分たちの死の恐怖に直面していたわけではありません。
 しかし、主イエスは、すぐに語りかけ始められ、「勇気を持て、私である。私はありてある者である。恐れるな」と言われ、舟に上がられると、風はやんだのでありました。
 弟子たちは、自分たちの心の中でこの上なく、ひどく、驚き、肝をつぶしていたと書かれているのであります。そして、それは、彼らの心が愚鈍になっていて、パンの奇跡を理解できないでいたからであるというのです。
 私たちは、本日の、逆風に漕ぎあぐねている小舟の中に置かれているのと同じ小さな教会の群れであります。しかし、どんなに順調でない時にも、主のお言葉と共にある、主と共にある存在なのであります。
 確かに、私たちはしばしば、み言葉から離れ、罪に陥らざるを得ない弱い存在であります。けれども、主イエスのお言葉と共にあるとき、どんな試練、逆風にも耐えることが出来る存在なのであります。
 先週、ディアコニア・キャンプに障がい者の3人の兄弟姉妹を含めて、総勢13人で行ってまいりました。4泊5日のかなりハードなキャンプでありました。さすがに、戻ってから疲れが出て、体調がここのところ、あまりよくありませんでした。
 しかし、本日のこの個所を与えられ、真の癒しを主のお言葉と、主が共におられることを通して与えられています。
 牧師は、毎週のように説教をしなければなりません。それは、大変なことですけれども、毎週のように、こうして、礼拝に兄弟姉妹と連なることが許されています。それを通して大きな慰めと力を与えられ、回復することができるのであります。
 さて、この福音書を読んでいたマルコの教会の人々にとって、その存在は、本日の小さな舟の中で漕ぎあぐねている弟子たちと同じようなものであったでしょう。
 しかし、主が共にいて下さり、この記事を読むたびに、彼らは真の安らぎを与えられ、主イエスこそ真の救い主であることを告げ広める特権と責任を喜んで引き受けることが出来たでありましょう。
 主イエスこそ、私たちに真に欠乏しているものを与えて下さる方なのであります。それを、2000年たった今も、主は聖餐を通して、また、み言葉を通して与え続けておられるのであります。
 人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方を、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
スポンサーサイト
2009/08/23(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。