津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主の業にいそしむために」(マルコ6:30~44)原拓也牧師
マルコ6:30-44、2009・08・16、聖霊降臨後第11主日(典礼色―緑―)
エレミヤ書23:1-6、エフェソの信徒への手紙2:11-22

マルコ6:30~44
 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるように、お命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。



説教「主の業にいそしむために」(マルコ6:30~44)原拓也牧師

 この箇所は「五千人の給食」「五千人のパン」「五つのパンと二匹の魚」などと言われてよく知られている箇所であるとともに、主がなさった数々の力あるみ業の中で、唯一、四福音書全てに記録されている出来事でもある。(マタイ14:13~21、ルカ9:10~17、ヨハネ6:1~14)。
 このことは、この出来事が弟子たちの印象に深く残っただけではなく、彼らにとって極めて大事な経験であったことを示している。(ちなみに「四千人のパン」として知られている出来事は、マタイとマルコのみ。)
 日課の「五千人のパンの奇跡」自体については幾度となく聞かれていることと思うので、今日は日課の前半の部分(主に30~34節)に焦点を置いて主からの教えを聞いてみたいと考えている。説教題の「主のみ業にいそしむために」もそのような視点から設定しています。

6:31b:「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかった」。イエスさまご自身が「人の子は枕する所もない」と言われたように、主のご生涯は非常に多忙であった。当然、弟子たちも毎日慌ただしく過ごしていたことでしょう。
 そのような中でもこの時は特に忙しい時期だったようです。(時期的には前後していると思われるが、直前の記述だけを取り上げてみても。)

共観福音書:湖の上での嵐(嵐を治められたイエス)。12年間の病の婦人の癒し。ヤイロの娘のよみがえり。悪霊に取り付かれていた男の癒し。ナザレでの人々の不信と排斥。洗礼者ヨハネの殉教。
ヨハネ福音書:シカルでのサマリアの女との出会い。役人の息子の癒し。ベトサダの池でのユダヤ人たちからの迫害と殺意。
 など、精神的にも肉体的にも疲れるようなことが多く記されている。

6:31節a~32節:「さあ、・・人里離れた所へ行ってしばらく休むがよい・・。そこで、一同は舟に乗って・・・行った。」
 ここにはそのような状態の中での、イエスさまの弟子たちへの配慮が見られる。

6:33節:「ところが、多くの人々は・・そこへ一斉に駆けつけ、先に着いた。」
 このときの状況をもう少し考えてみましょう。
1、 一同はどこからどこへ行ったのでしょうか。
ヨハネ福音書は「ガリラヤ湖・・の向こう岸」
ルカ福音書は「ベトサイダという町」と記している。
 このとき、イエスさまはガリラヤ湖の北西岸カペナウムにおられたと考えられますから、そこから北東岸のベトサイダ近郊へ行かれたのでしょう。
2、 時間はどれくらいかかったのでしょうか。
 この両岸の間は直線距離で4~5キロメートル、岸辺を歩くと8~10キロメートルあると考えられます。しかも途中でヨルダン川を渡らねばなりません。「男が五千人」女・子供も入れると数千人の人が「駆けつけて(も)、・・・先に着く」ためには、相当の時間がかかったと考えられます。・・・1~2時間?もっとかかったでしょうか。
3、 この間、イエスさまと弟子たちは、(舟の上で)何をしておられたのでしょうか。ある註解者は「嵐にでも遭ったのだろう」と言いますが、私は「しばらく休むがよい」とのイエスさまのみ言葉との関連で、この時間に弟子たちは「(ゆっくり)主の教えを聞き、食事をし、休息を取った」と考えます。
そのために、イエスさまは意図的に舟をゆっくり進められた、とも言えるでしょう。

 このようにして、イエスさまは弟子たちを(次の働きのために)整えてくださった、と考えることが出来るのですが、このイエスさまは今の時代の私たちに向かっても、「しばらく休むがよい」とおっしゃるのではないでしょうか。
 「群衆を・・深く憐れ」まれた(6:34節)イエスさまは、同じ眼差しをもって私たちを見ていて下さる方であります。それ故、私たちは「憐れみを受け、恵みに与って、時宜に適った助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づ」くことができる(ヘブライ4:16)のです。

 この舟の中での憩いの時は、今日の私たちにとっては「礼拝」のときとして見ることが出来ます。
 「聖餐を含む礼拝の場」、そこは、イエスさまが「しばらく休むがよい」とおっしゃて日頃の生活に疲れている私たちを招いてくださり、“身をかがめて私どもの足を洗い、また、ご自身の身体と血とを与えて私どもを養い、強めてくださる所”です。
 湖の上で弟子たちが主とともに過ごした時間は決して長いものではなかったでしょう、しかし、弟子たちの次の働きを考えるとき、それは実に貴重で豊かな時間でありました。
 私たちが持つ「礼拝の時間」も決して長いものではありません。
 たとえば、一週間に一回の礼拝を90分としても、112時間分の1にすぎません。日毎の家庭礼拝を、20分としても、70日分の1に過ぎません。
 しかし、この時間は、クリスチャンが主に仕えて生きていくためには、欠かす事の出来ない大切な時間なのだ、ということを覚えておきたいのです。

 ただ、この日毎の、週毎の礼拝には危険も付きまとっています。
<ブラジルでの経験>
 現地の人が「カトリック(信者)は嘘つきだ、と言っている」ということを聞かされました。そこで「どういう意味ですか」と尋ねて話をお聞きしたのですが、そこで聞かされたことは、「礼拝(ミサ)」が空洞化してしまっているということでした。
 しかし、私たちが守る礼拝はそのようなものではない筈です。私たちの礼拝は、一人一人があるがままの姿で主の前に出て、赦しと慰めを受け、み恵みの中で養われ、強められて、もう一度人々の中に遣わされていく、そういう場所であります。

 主はこうして整えられた弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とおっしゃいますが、この「あなたがた」という言葉は、敢えて言えば「あなたがたが(それを)しなければ誰がそのことをするのか」というほどの強い意味を持った言葉です。
 パウロは“私たちの日々の生活、その全てが礼拝である”と言います(ローマ12:1)。
 ルターはそのような生き方について「私はキリストが自らを私に与え給うたように、私を言わばキリストとして隣人に与える。そして、この生において私が隣人に対して必要であり、利益となり、救いとなると考えること以外の何事も為さないであろう」(キリスト者の自由)と言っています。

 私たちは日毎の「礼拝」、週毎の「礼拝」を大切に守り、ここで整えられて「主の業にいそしむ」者でありたいと願います。アーメン。
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2009/08/16(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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