津田沼教会 牧師のメッセージ
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「素手で感じる力」(マルコ6:6b~13)立野泰博牧師
マルコ6:6b-13、2009・08・09、聖霊降臨後第10主日(典礼色―緑―)
アモス書7:10-15、エフェソの信徒への手紙1:3-14

マルコ6:6b~13
 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落しなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。



説教「素手で感じる力」(マルコ6:6b~13)立野泰博牧師

 どこのトイレも奇麗になりました。高速道路のトイレなどは特に目立って奇麗です。花が飾ってあったりして気持がいいものです。いつもトイレを清潔に保つことで交通事故を少なくしているのでしょう。
 トイレの話でもう一つ、あるデパートのトイレを利用していましたら、清掃のおばさんが入ってこられ、せっせと清掃を始められました。用をたしながらなにげなく見ていますと、その方は素手なのです。ゴム手袋もせずにただ黙々と清掃しておられました。その後ろ姿がとても印象的で、母を思い出しました。
 その方に「おばさんは素手ですね」と聞きましたら、「いつも奇麗に保っていれば平気よ」と言われ、「素手の方が細かい汚れが分かりますから」と言われました。
 私たちは神さまから素手のままで保たれています。神さまによって保たれている自分にはなかなか気づかないものです。どこかで誰かが保っていてくれるのです。イエスさまは、神さまの前で私たち一人一人のために祈っておられます。これこそが、私たちが保たれているということです。

 聖書をみてみましょう。弟子たちの派遣の箇所です。イエスさまは弟子たちを派遣するにあたり、「何ももっていくな」と言われています。素手で行きなさいと言われているのです。必要最小限、ここでは「つえ」「履物」「下着一枚」と言われています。このような物だけで宣教ができるのでしょうか。少なくともお金くらいはと思ってしまいます。
 この福音書に書かれてある、イエスさまのみ言葉は大変厳しいものです。厳しい条件をつけておられると言ってもよいでしょう。何ももっていくなということは、突き詰めれば「命がけ」ということです。宣教とは命をかけた活動であり「使命」であるといわれるのです。もっといえば「あなたは命がけの覚悟があるか」と問われているみたいです。使命を果たすにはそれくらいの覚悟でのぞみなさいと。そのような厳しいみ言葉です。
 しかし、どうしてそこまでの厳しさを求められるのでしょうか。これは弟子たちに「裸になること」「素手になること」を命じられたのではないでしょうか。福音の宣教に向かうときは、あなたが持っている物を捨てなさいということです。勿体ぶった重々しさや、飾り立ての装飾、いらない謙遜、人間の中にある様々な考えや思想などすべて捨てなさいということです。ひたすらイエスさまのみ言葉に立ちつくすのです。イエスさまとともに生きる真剣さと信仰のみでよろしい。その信仰の真剣さのみでよろしい。その信仰の真剣さのみが、人の心を打つことになるのです。
 「何ももっていくな」とのみ言葉をもう一度考えてみます。何度もみ言葉を読み確かめてみますと、あることに気がつきました。それはイエスさまが「何ももっていくな」と言われるときは、「あなたたちに必要なものはすべて備わっている」ということです。弟子たちが裸になって、素手になっても持ってるものがある。それはイエスさまを持っている。何もなくてもイエスさまが弟子たちの中に生きておられる。福音がそこにあるのです。自分が必要とするすべての物をすてたとしても、弟子の中にいきる信仰は残っているのです。
 イエスさまはきっとそれを教えるために「何ももっていくな」と言われるのです。道具や考え、思想やお金でなく、福音のみ言葉が私たちのうちに生きているならば、それですべてのものは備えられているのです。素手のなかに永遠の命をもっているのです。

 2年前にドイツ旅行をしました。3泊4日の旅で、アッという間に帰ってきました。しかし、こんなに恵みに溢れた旅も久しぶりでした。
 いつも思うのですが、海外旅行(出張)を計画するときは楽しくて仕方ありません。場所を調べ、航空券を予約し、準備を始める。その時は「るんるん」気分です。しかし、日にちが迫ってくると、だんだん面倒だなと思えてきます。3日前位になると「行きたくない」などと、思い出すのです。多分、普段の仕事がたまっているせいかもしれません。前日になっても「ああ~明日いかねばならないのか」とため息すらでてきます。こんなことを繰り返している自分が可笑しくもあります。
 ところが、離陸した瞬間にすべてのことから解放された喜びを感じます。不思議なことですが、全身が軽くなるのです。たぶんこの一瞬のために自分は旅行するのかもしれないと思うのです。日常の流れの中で、まったく違う日常の中に自分を置くことは、まったく別の自分を発見することができます。
 今回は「牧師」であることの発見をしてきました。はるか遠くのドイツまできて、ハノファーから車で約4時間、オランダとの国境に近い北ドイツの海辺の街までやってきて「一体自分は何をしているんだろう」と真剣に思いました。なぜ自分はここにいるのだろうと 
考えました。しかし、一人の子どもの洗礼式が私に「牧師」であることの喜びを与えてくれたのです。神さまによって遣わされている実感。選ばれてここに立っている自分は、牧師として召されていることの体感。言葉では表現できない召命を再びいただきました。
 何ももたない自分の、イエスさまをもっている宣教者の力を感じることができました。

 何も持っていない弟子たち。確かに見えるものは何も持っていない弟子たちでした。しかし、イエスさまに派遣されるにあたり、神さまの言葉と力を与えられています。弟子たちはみ言葉の力を持っています。だとすると何ももっていないように思えても、すべてを持っているのです。これが素手の力です。素手であることの原点です。
 私たちもまた、宣教に出ていくときに不安がたくさんあります。あれがない、これがないと不満も持っています。こんな私では・・・と弱気も持っています。しかし、それ以上にイエスさまを持っていることを知らなければなりません。イエスさまがあなたを宣教の道具として用いたいと派遣されるのです。神さまがその時に共におられると言われるのです。多くの人の前に立つとき、私だけがそこにいるのではありません。イエスさまも共にそこに立ち続けておられるのです。そこで出会う人々に祝福を与えることができる幸いを持っています。
 私たちは宣教にでかけるときに恐れも持っていかなくていいのです。







マルコ6:6b-13、2009・08・09、聖霊降臨後第10主日(典礼色―緑―)
アモス書7:10-15、エフェソの信徒への手紙1:3-14

マルコ6:6b~13
 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落しなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。



説教「素手で感じる力」(マルコ6:6b~13)立野泰博牧師

 どこのトイレも奇麗になりました。高速道路のトイレなどは特に目立って奇麗です。花が飾ってあったりして気持がいいものです。いつもトイレを清潔に保つことで交通事故を少なくしているのでしょう。
 トイレの話でもう一つ、あるデパートのトイレを利用していましたら、清掃のおばさんが入ってこられ、せっせと清掃を始められました。用をたしながらなにげなく見ていますと、その方は素手なのです。ゴム手袋もせずにただ黙々と清掃しておられました。その後ろ姿がとても印象的で、母を思い出しました。
 その方に「おばさんは素手ですね」と聞きましたら、「いつも奇麗に保っていれば平気よ」と言われ、「素手の方が細かい汚れが分かりますから」と言われました。
 私たちは神さまから素手のままで保たれています。神さまによって保たれている自分にはなかなか気づかないものです。どこかで誰かが保っていてくれるのです。イエスさまは、神さまの前で私たち一人一人のために祈っておられます。これこそが、私たちが保たれているということです。

 聖書をみてみましょう。弟子たちの派遣の箇所です。イエスさまは弟子たちを派遣するにあたり、「何ももっていくな」と言われています。素手で行きなさいと言われているのです。必要最小限、ここでは「つえ」「履物」「下着一枚」と言われています。このような物だけで宣教ができるのでしょうか。少なくともお金くらいはと思ってしまいます。
 この福音書に書かれてある、イエスさまのみ言葉は大変厳しいものです。厳しい条件をつけておられると言ってもよいでしょう。何ももっていくなということは、突き詰めれば「命がけ」ということです。宣教とは命をかけた活動であり「使命」であるといわれるのです。もっといえば「あなたは命がけの覚悟があるか」と問われているみたいです。使命を果たすにはそれくらいの覚悟でのぞみなさいと。そのような厳しいみ言葉です。
 しかし、どうしてそこまでの厳しさを求められるのでしょうか。これは弟子たちに「裸になること」「素手になること」を命じられたのではないでしょうか。福音の宣教に向かうときは、あなたが持っている物を捨てなさいということです。勿体ぶった重々しさや、飾り立ての装飾、いらない謙遜、人間の中にある様々な考えや思想などすべて捨てなさいということです。ひたすらイエスさまのみ言葉に立ちつくすのです。イエスさまとともに生きる真剣さと信仰のみでよろしい。その信仰の真剣さのみでよろしい。その信仰の真剣さのみが、人の心を打つことになるのです。
 「何ももっていくな」とのみ言葉をもう一度考えてみます。何度もみ言葉を読み確かめてみますと、あることに気がつきました。それはイエスさまが「何ももっていくな」と言われるときは、「あなたたちに必要なものはすべて備わっている」ということです。弟子たちが裸になって、素手になっても持ってるものがある。それはイエスさまを持っている。何もなくてもイエスさまが弟子たちの中に生きておられる。福音がそこにあるのです。自分が必要とするすべての物をすてたとしても、弟子の中にいきる信仰は残っているのです。
 イエスさまはきっとそれを教えるために「何ももっていくな」と言われるのです。道具や考え、思想やお金でなく、福音のみ言葉が私たちのうちに生きているならば、それですべてのものは備えられているのです。素手のなかに永遠の命をもっているのです。

 2年前にドイツ旅行をしました。3泊4日の旅で、アッという間に帰ってきました。しかし、こんなに恵みに溢れた旅も久しぶりでした。
 いつも思うのですが、海外旅行(出張)を計画するときは楽しくて仕方ありません。場所を調べ、航空券を予約し、準備を始める。その時は「るんるん」気分です。しかし、日にちが迫ってくると、だんだん面倒だなと思えてきます。3日前位になると「行きたくない」などと、思い出すのです。多分、普段の仕事がたまっているせいかもしれません。前日になっても「ああ~明日いかねばならないのか」とため息すらでてきます。こんなことを繰り返している自分が可笑しくもあります。
 ところが、離陸した瞬間にすべてのことから解放された喜びを感じます。不思議なことですが、全身が軽くなるのです。たぶんこの一瞬のために自分は旅行するのかもしれないと思うのです。日常の流れの中で、まったく違う日常の中に自分を置くことは、まったく別の自分を発見することができます。
 今回は「牧師」であることの発見をしてきました。はるか遠くのドイツまできて、ハノファーから車で約4時間、オランダとの国境に近い北ドイツの海辺の街までやってきて「一体自分は何をしているんだろう」と真剣に思いました。なぜ自分はここにいるのだろうと 
考えました。しかし、一人の子どもの洗礼式が私に「牧師」であることの喜びを与えてくれたのです。神さまによって遣わされている実感。選ばれてここに立っている自分は、牧師として召されていることの体感。言葉では表現できない召命を再びいただきました。
 何ももたない自分の、イエスさまをもっている宣教者の力を感じることができました。

 何も持っていない弟子たち。確かに見えるものは何も持っていない弟子たちでした。しかし、イエスさまに派遣されるにあたり、神さまの言葉と力を与えられています。弟子たちはみ言葉の力を持っています。だとすると何ももっていないように思えても、すべてを持っているのです。これが素手の力です。素手であることの原点です。
 私たちもまた、宣教に出ていくときに不安がたくさんあります。あれがない、これがないと不満も持っています。こんな私では・・・と弱気も持っています。しかし、それ以上にイエスさまを持っていることを知らなければなりません。イエスさまがあなたを宣教の道具として用いたいと派遣されるのです。神さまがその時に共におられると言われるのです。多くの人の前に立つとき、私だけがそこにいるのではありません。イエスさまも共にそこに立ち続けておられるのです。そこで出会う人々に祝福を与えることができる幸いを持っています。
 私たちは宣教にでかけるときに恐れも持っていかなくていいのです。

























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