津田沼教会 牧師のメッセージ
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「平和を創り出す」(ヨハネ15:9~12)内海望牧師
ヨハネ15:9-12、2009・08・02、平和の主日(典礼色―赤―)
ミカ書4:1-5、エフェソの信徒への手紙2:13-18

ヨハネによる福音書15:9~12
 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」



説教「平和を創り出す」(ヨハネ15:9~12)内海望牧師

 今日は「平和の主日」として礼拝を守っています。これは日本福音ルーテル教会が設定した特別な主日で、8月6日、9日と広島、長崎に原子爆弾が投下された時期に最も近い日曜日に設定されています。今でも、被爆者の方々、また家族の方々の痛み苦しみは深く、聞いたり、読んだりするたびに心が痛みます。原爆のみならず、東京大空襲(ベタニヤホームでも多くの人が亡くなりました。)、沖縄戦、そして世界中の人々が戦争の痛手に苦しみました。また今も苦しんでいます。沖縄での戦いでは中学生、女学生までもが戦闘員として招集され、多くの人々が亡くなりました。
 太平洋戦争での犠牲者は今日310万人と言われています。ついこの前までは300万人と言われていたのです。どんどん数が増えて行きます。正確な数字は分からないのです。映画監督の新藤さんは、「その上、その家族の一人一人に悲しみを与えたのだ」と語っています。私たちが平和を求めて祈るということは大切なことです。また祈り続けることが大切です。
 今日与えられた聖書の個所を通して、平和主日に、私たちは何を祈るかということを改めて考えてみましょう。
 初めに、福音書の日課を読んでみましょう。この個所はイエスさまが十字架につかれる直前に弟子たちに与えられた訣別の説教の一節です。それは、イエスさまが弟子たちの足を洗い、最後の晩餐を終え、イエスさまを裏切ったユダは夜の闇に消えて行った時のことです。
13章にしるされています。
 そのような切迫した時に、イエスさまは新しい掟を弟子たちにお与えになるのです。それは「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」というものでした。イエスさまがお与えになった唯一の掟です。この掟が今日の日課である15章でも繰り返し命じられています。イエスさまの置かれている状況を考えないで、この言葉だけを取り出すならばまことに美しい言葉です。多くの人々が座右の銘にしています。
この掟に対する批判もあります。それは、ここでは仲間同士の愛が語られているだけではないか、もっと広い人類愛が語られるべきではないかという批判です。しかし、そのような批判をする前に、イエスさまの置かれている現実に目を向けなければならないでしょう。実は、イエスさまは最も深い悲しみと、苦しみの中にあったのです。自分に最も近い所にいた12弟子の一人が自分を裏切り、夜の闇の中へ去って行きました。あるいは、12弟子がお互いに誰が一番偉いかと言い争っていました(ルカ22章24節以下)。裏切り、妬み、そねみ、権力闘争が渦巻いていたのです。
 十字架を前にした切迫したこの時にも、イエスさまの周囲は「平和を乱す騒ぎ」でいっぱいだったのです。イエスさまの苦悩、悲しみはいかばかりであったでしょう。このような弟子たちに対して、イエスさまが「互いに愛し合いなさい」とおっしゃるのは至極当然なことです。
 12弟子が特別に弱い人間であったということではありません。これは、12弟子だけの問題ではなく、罪人である「人間の問題」なのです。つまり、私たち一人一人の問題なのです。戦争や殺戮、憎しみを生み出したのは他でもない私たち人間なのです。ユダヤ人の強制収容所から奇跡的な生還をなしたヴィーゼルの書いた書物の中に(アニ・マアミン)、「どうしてホロコーストのような痛みをこの世界に許されるのですか」という必死に神さまに問いただす人間に対して、神さまが「お前は、いったい私の被造物に何をしたのだ」と問い返される場面があるそうです。神さまの悲しみに満ちた怒りの声が聞こえてくるような場面です。
 観念的な「人類愛」なら誰でも持つことが出来ます。しかし、真に平和が必要なのは、今ここに生きている生身の人間である私たちなのです。私たちは隣人に苦しみを与え、与えられて生きている罪人なのです。
 このように考えると、私たちは、神さまに「平和を与えて下さい」などと祈る資格はありません。私たちも12弟子となんら変わることがありません。むしろ、平和を願うなら、私たちは神さまの怒りと悲しみとを感じるべきなのです。今イエスさまを苦しめているユダ、ペトロなど12弟子の間にほかならぬ私たち自身の姿を見るのではないでしょうか。私たちは、平和を祈るどころか「平和を乱す者」なのです。
 このように平和が失われた弟子たちの間にあって、イエスさまは「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」とおっしゃるのです。「他でもない君たちこそ互いに愛し合うべきなのだ」と抽象的な人生訓としてではなく、生身の人生の現実の中でおっしゃっているのです。ここに目を向けるべきです。
 さて、ここで、今日の第二の日課であるエフェソ2章を開いてみましょう。この手紙は、パウロ自身が書いたものでなく、パウロに近い人物が書いたものだと言われています。それはともかく、エフェソ教会は異邦人教会でした。つまり、当時神さまから最も遠いとユダヤ人から言われていた異邦人とユダヤ人が共に礼拝を守っていた群れです。このことの意味は深いのです。私たちは「異なった文化」「異なった人種」「自分にとって都合が悪い人」と共に生きることが難しいことを知っています。「共に生きる」という美しい言葉が声高に語られますが、実際の生活ではそううまくいきません。私たちは違った人種、嫌いな人は避けたいのです。離れたいのです。実際問題としては、残念ですが、共に生きることは絶望的に難しいのです。
 しかし、確かに今、エフェソの教会の人々は「ユダヤ人と異邦人と共に礼拝を守っている」のです。驚くべき事実です。どうしてそのようなことが起こったのでしょうか。その原因を、この手紙の著者は、「キリストによって、そのようになった」と語るのです。そこで、イエスさまが、「私があなた方を愛したように」とおっしゃった福音書の意味がはっきりしてきます。
 エフェソ書は、「キリストは私たちの平和である」「キリストは、その十字架の死を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされた」と語ります。
 エフェソ教会に属する人々も、私たちと同じような人間でした。自己主張のみ、隣人と、まして異邦人とは決して共に生きて行けない人々でした。しかし、今は「敵意を滅ぼされました」と語るのです。努力してそうなったのではありません。「神さまの怒りと失望の下にある私たちを神さまと和解させるために、キリストは十字架に死んで下さった」という出来事によって、今まで敵意という壁で分け隔てられていたユダヤ人と異邦人が一つの群れに生きることが出来るようになったという喜びを語っているのです。
 18節「それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つに結ばれて、御父に近づくことが出来るのです」だから「あなたがたはもはや外国人でもなく、寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」と語ることが出来るのです。これが教会です。「聖なる神の家族」!なのです。このような交わりは、人間の力で作り上げることは出来ません。十字架につけられたままのイエス・キリスト、このキリストの愛が迫って来るとき、古い私は死に、新しい私が生まれるのです。
 福音書の「わたしがあなた方を愛したように」というみ言葉の意味は、私のためにイエスさまが十字架に命を捨てられたということであったのです。このイエスさまの十字架の死という事実を目の当たりにした時、弟子たちは新しい人に造りあげられたのです。「平和を乱す者」から「平和を創り出す者」へと変えられたのです。その後も残りの弟子たちは間違いを数多く犯しました。しかし、確かに新しい生き方を身につけたのです。ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、パウロ、そして私たちに至るまで、すべてキリストの十字架によって新しく造られた者なのです。
 ここで唐突ですが、いわゆる「善いサマリア人のたとえ」を考えてみましょう。
「善いサマリア人のたとえ」の解釈はさまざまあります。しかし、その中で最も心惹かれるのはルターの解釈です。ルターは「善いサマリア人はキリストだ」と言うのです。私たちは、罪人であり、平和を乱す者であり、神さまから最も遠い所に生きている罪人であるとしか言えません。「お前が私の被造物にしたことを考えろ!」と神さまから叱責を受けても顔を上げることは出来ません。「平和の祈り」など捧げる資格はありません。あの追剥にあった旅人と同じく半死半生のぼろぼろの人間です。しかし、それでも何とかまっすぐに歩みたいという願望を心の奥底に持っています。
 そのようなイエスさまから最もかけ離れた所に生きる私たちの所に駆けより、寄り添って下さるのがイエスさまなのだとルターは語るのです。私を助けてくれるなど決して考えられないような神さまのひとり子が、私たちを救うために命をも差し出して下さるのです。パウロは、このようなイエス・キリストの姿を「キリストの愛がわたしたちに強く迫っている」(コリント二5:14.口語訳)と語っています。キリストの愛の迫力が、パウロを、エフェソの教会の人々を変えたのです。
 私たちの許に駆けよって下さる十字架のイエスさま、善いサマリア人であるイエスさまの愛を感じ取ることによって、私たちもまた、駆け寄る者、寄り添う者、つまり「平和を創り出す者」に変えられていくのです。人の苦しみに気づく愛の想像力が増し加えられます。その時こそ、私たちが心から平和の祈りを祈ることが出来るのです。「み国を来たらせたまえ。御心がこの地にも行われますように」と心から祈ることが出来るように変えられていくのです。イエスさまは「平和を創り出す者は幸いである」(口語訳)とおっしゃいました。イエスさまが作って下さった教会という群れに生きるさいわいを思います。そしてこのさいわいが、この地に広がって行くことを希望として喜ぶことが出来ます。イエスさまの愛の迫力に押しだされて、決して諦めずに平和を求めて生きて行きましょう。

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2009/08/02(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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