津田沼教会 牧師のメッセージ
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「魂を救い、病気を癒す方」(マルコ3:1~12)
マルコ3:1-12、2009・06・28、聖霊降臨後第4主日(典礼色―緑―)
イザヤ書58:11-14、コリントの信徒への手紙二5:1-10

マルコによる福音書3:1~12
 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

 イエスは弟子たちと共に湖の方へと立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。




説教「魂を救い、病気をいやされるお方」(マタイ3:1~12)
 
本日のマルコによる福音は、3章の1節から12節までです。三位一体主日などが終り、再び、マルコ福音書に従って、主イエスの語られたお言葉と、そのなされたみ業について、学んでいく時に入りました。神の希望を表す緑の色の、聖霊降臨後の主日がこれから、教会暦の後半、続きます。
 本日の福音の個所は、前半が、主イエスが会堂でなさった手のなえた人の癒しと主イエスの語られたお言葉、また、後半は、ガリラヤの海辺での宣教の成功の記事というふうに見ることができます。
 今日の説教題を「魂を救い、病気を癒されるお方」というふうに、付けておきましたが、主イエスがお出でになられたのは、何よりも私たちの魂、命を救うためであり、また、汚れた霊どもが働いていると考えられた、私たちの体の病気を癒すためであります。ただ、単に体の病が、また、心の病がなおるということそのものに、絶対的な価値があるわけではありません。なぜならば、私たちは、やがては、皆老いを迎え、介護をしてもらう体へと弱って行くからであります。そのようにして、やがては、皆、寿命が来て、天に召されるときが来るのであります。そして、また、私たちは生きている以上、罪にまみれており、今日の第2の朗読でありましたように、地上で生活していたときの行いに従って、主、神のみ前に裁かれるときがくるのであります。
 しかし、主イエスは、私たちの肉の体がやがて朽ちても、み国で永遠の命を、私たちに与えて下さるために、2000年前に地上にお出でになられたのであります。医療が現代いかに発達しましても、私たちの罪を癒すことのできるお方は、このお方、主イエスの他にはいらっしゃらないのであります。本日の第1の朗読、イザヤ書も、私たちが、根本から癒され、喜ぶ者となる時が来ると預言していますが、まさに、その預言が、主イエス・キリストにおいて実現しているのであります。
 さて、本日の主イエスは、再び、安息日に、会堂にお入りになります。ところが、そこに、片手の萎えた人がいた。人々は、主イエスが、安息日にこの人を癒されるかどうか、凝視していました。そして主は、言われます。安息日に悪を行うのと、善を行うのとどちらが適法であるか、魂を救うことと、滅ぼすことと、どちらが認められるのかと、言われ、悲しまれながら、人々を怒りをもって見廻して、その男の人に「真ん中に立ちあがりなさい」と言われ、「その手を差し出しなさい」と言われます。そして、彼が動かなくなっているその片方の手を差し出すと、その時、その手は回復されたのであります。
別の書物には、この人は以前、石工であって、主イエスにもとのように働けるように願ったとの伝説があります。安息日に労働することは、律法によって禁じられていましたが、主は安息日の主でもあります。牛や羊でさえ、井戸に落ちた時には、救いだす労働は認められていたのであります。ましてや、この男の人が、生計の手段をも奪われていたのであってみれば、片手を癒すのは、主イエスにとっては、たとえ安息日であってもご意志に適った、ふさわしいことなのであります。
しかし、6つ続く論争物語の5番目の本日の個所では、ファリサイ派の人たちは出て行って、ヘロデ党の者たちと結託して、このガリラヤ宣教の始めのときから、主イエスの命を滅ぼす策略を与えつつあったというのであります。
 さて、それで主イエスは、弟子たちと共に、ガリラヤの海辺へと引き下がられたのであります。海辺では、主イエスの宣教は、成功し、ガリラヤだけではなく、ユダヤ、イドマヤ、エルサレム、ヨルダン川の向こう側から、また、異邦人の地、チュルスやシドン辺りからも、著しく大勢が彼のもとへと、彼のしておられることを、聞いて押し寄せて来たのであります。
海辺での宣教は成功し、会堂ではファリサイ派のかたくなな心の狭さによって、そこでの宣教は概して失敗に終わるのであります。
 主は、小舟を常に用意しておくように弟子たちに頼み、群衆に押しつぶされないようにせざるをえないほどでした。それは、体の病気の者たち、大勢を癒しておられ、異郷の地からも、病気の体をもった人々が彼に触れようと押し寄せていたのであります。病気の原因をなすと考えられた汚れた霊たちも、主を見ると、大声を出して「あなたこそ、神の子です」と叫んでいました。しかし、主は、自分が何者であるかを告げ広めないように、厳しく霊どもに禁じていたのであります。軽々しく主を神の子ですと霊どもが叫ぶのを禁じられるのであります。私たちが、主を神の子として理解できるようになるには、長い時間や苦しみの体験などをへて、ようやく、受け入れることができるものなのであります。
 私たちは、一生の間には、大変な病気にかかることもあります。そして、だれもが老いていきますと、持病がで、やがては、病院や施設、あるいは、家庭で死を迎えるのでありますが、主によって、地上のすみかを離れても、朽ちることのない命を、与えられるのであります。
 私たちは、医療での癒し、治療も必要であり、助けになりましょう。しかし主イエスのお言葉によって、真に癒され、魂を救われることができます。私たちは、真に健全な体と魂を、主イエスを通して、また、聖書を通して与えられているのであります。それこそが、賛美歌でも歌いました、天の力に癒しえぬ悲しみは、地にはなしと歌うことが出来るのであります。そのことを感謝しながら、1週間への生活へと再び送りだされていきましょう。
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
 
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2009/06/28(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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