津田沼教会 牧師のメッセージ
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「恵みとしての律法」(マルコ2:23~28)内海望牧師
マルコ2:23-28、2009・06・21、聖霊降臨後第3主日(典礼色―緑―)
サムエル記上6:1-6、コリントの信徒への手紙二4:7-18

マルコによる福音書2:23~28
 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」




説教「恵みとしての律法」(マルコ2:23~28)内海望牧師

 イエスさまとファリサイ派の人々との律法をめぐる論争場面の一つです。ここでイエスさまは「律法に記されている安息日規定は人のために定められた」とおっしゃっています。その通りなのです。安息日はすべての労働から解放されて安息するために設けられた律法です。この日は、奴隷も休むことが出来る解放の規定なのです。
 また、律法は貧しい人が麦の穂を摘むことも許しています。その個所を読んでみましょう。申命記23章25、26節です(317ページ)。「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまで食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」と書かれています。この個所は、弱者に対する保護規定と呼ばれていますが、行き届いた規定です。何よりもほっとする明るさがあります。
 このように、律法は本来人間を助けるために与えられた神さまからの賜物なのです。階段の手すりのようなものであると定義した人がいます。手すりを必要としない人には何の妨げにもなりませんが、必要とする人には階段から転落するのを防ぐ無くてはならぬものなのだというのです。良いたとえです。律法は、私たち人間が、人生を正しい方向に向かって歩むために与えられたガードレールあるいは案内板、転落予防の手すりのようなものです。決して人間を束縛したり、苦しめたりするようなものではありません。
 しかし、問題は私たちが律法を必要としているかどうかにあります。手すりがあるから、転ばないからよかったと思っている人には、手すりは安心感を与えます。しかし、手すりなど必要ないと思っているとき、私たちは真っ逆さまに転落してしまうこともあるのです。ここが大切な所です。人間は罪人です。律法という賜物を無視して、自分の力だけで生きていこうとするとき、必ず間違った方向へと歩んでしまうのです。
 人間にとって律法はどうしても必要なものであり、神さまが与えて下さった恵みです。
 ところが、ファリサイ派の人たち、あるいは律法主義者たちはこれを利用して自分を高め、守っていない人を見下げる生き方です。
 このように律法がゆがめられて用いられるには理由があります。一つには罪を複数形でとらえることにあります。イエスさまの時代は、律法が制定されて500年くらいは過ぎているので、「この場合、この条文は現代ではどう考えたらよいだろうか」という問いが人々の心に起こって来ました。そのような時、律法の意味を解釈する人が必要になって来ました。そこで律法学者という仕事が生まれて来たのです。彼らは、煩雑な(レビ記!)律法の条文を引用しながら律法の意味を解釈して人々に伝えました。例えば、「安息日には何歩以上歩いてはならない」とか「このようなことをすれば労働になるから、してはいけない」とか細かい解釈を下すのです。
 今日の日課のファリサイ派の人々がまさにそうです。彼らも保護規定は知っていましたから、弟子たちが麦の穂を摘むことには文句は言いませんでした。しかし、「安息日を守らないで働いた」という点でイエスさまを攻撃するのです。「あれを破った。これを破った」と罪を数え上げて人々を非難し、支配するのです。短い個所ですが、今日のイエスさまとファリサイ派の人々との会話は陰険です。
 このような時、罪は「量」で考えられるようになります。罪が複数形で数えられるようになるのです。「罪がより多い人、良い少ない人」と分けられるようになるのです。そこで競争が始まるのです。罪がより少ないと考えている人は、より多いとみられる人を攻撃し、蹴落とします。そして自分を高めるのです。「信仰的まじめさの競争」になって行くのです。他人との比較と競争が起こります。これでは心は休まることがありません。いつもおどおどと人の目を気にして生きるのです。
 更に、このような考え方は自分の行いによって神さまの愛を買い取ろうとする行為義認主義にもつながって行くのです。
 このようにして、神さまが人間のために与えて下さった恵みの賜物としての律法が、神さまの御心から遠く離れ、人間世界を混乱させ、人々を苦しめるものとなってしまったのです。このように恵みの賜物をゆがめてしまった原因は人間にあります。それはエゴイズム、自分絶対主義です。罪が量で測られ、「より多い、より少ない」が競争になれば必ず自分を神としようとする罪が頭をもたげて来るのです。パウロが言うように「律法の義を求める心が罪を生む」のです。「自分を絶対正しいとする」「自分を神のように考える」ことこそアダム以来の原罪です。
 恐ろしいことに、このような心は私たちすべての心にひそんでいるのです。私たちも簡単に律法主義者になってしまいます。正義を振りかざして他者を攻撃する姿は醜く、恐ろしい自分の姿に慄然とします。このように律法を利用するとき、神さまはまことに厄介な存在になってしまうのです。
 しかし、振り返って考えると、私たちもファリサイ派の人と同じになっている時があります。私たちもいつの間にか「信仰的まじめさの競争」に加わっているのです。悪魔は巧妙に私たちの心を罪のとりこにしてしまうのです。私たちも正義を振りかざして他者を攻撃することがしばしばです。もちろん、口に出して言うようなことはしませんが心の中にそのような思いがあることは事実です。
 それでは、どうしたら、私たちはこの暗い律法主義の世界から抜け出すことが出来るでしょうか。
 そのためには、もう一度目を上げて素直に神さまの前に立つこと以外にはありません。どんな罪人であっても神さまは愛して下さる方です。この愛を信じて素直に、あれこれと言い訳をしたりしないで罪人として立つのです。言い訳と言いました。それは、自分も少しは善い行いをしたとか、自分にも少しは信仰的な所があるというような量的行為を主張することです。
 律法は手すりのようなものだと申し上げました。そして、私たちの心には罪が巣くっています。隙あれば、私たちの心を呑みこもうとしているのです。私たちの心はねじれてしまっているのです。それは心のあり方の問題であって、犯した罪の数を競うというような問題ではありません。
 「私はあれこれの罪を犯したから罪人になった」のではなく、まさに「罪人だから罪を犯す」のです。神さまの前に立つとき、私たちは罪人である私に気づかされるのです。量の問題ではありません。「私は罪人」としか言えない自分の姿に気づかされるのです。しかし、まさにその時「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(2:17)というイエスさまのみ言葉に逃げ込むことが出来るのです。そして100%の赦しと、新しい命とを与えられるのです。
 もはや「罪を犯さないように」とびくびくして生きるのではなく、罪人を赦し、その十字架の血によって罪を贖って下さった赦しの愛のうちに喜んで生きる道が備えられるのです。このようにしてパウロが言うように、律法は私たちをキリストへと導く養育係の役目を担ってくれるのです。(ガラテヤ2章24節)。
 そして、私たちを自分の業によって生きるのではなく、ただキリストの贖いの御業により頼んで生きる者へと変えられて行くのです。私たちは神さまの愛の作品であるとエフェソ書には記されています。そうです、私たちは土の器、罪の器ですが、イエスさまがこの私たちの器に溢れるばかりの恵みを注いで下さるのです。
 神さまは、人間から何かを受ける必要はありません。私たちの善い行いを求めてはいらっしゃいません。神さまは、たとえ人間が恩知らずであっても、ただ与えることしかなさいません。このことを信じて生きる時、妬み、争い、信仰的まじめさを競うあの暗い争いは消え去ります。そこには恵みを受け取る喜びしかありません。そのような交わりに生きる群れが教会なのです。なんと素晴らしいことでしょうか。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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2009/06/21(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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