津田沼教会 牧師のメッセージ
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「三つにましてひとりの神」(ヨハネ3:1~12)
ヨハネ3:1-12、2009・06・07、三位一体主日(典礼色―白―聖餐式あり)
イザヤ書6:1-8、ローマの信徒への手紙8:14-17

ヨハネによる福音書3:1~12
 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くか知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」


説教「三つにましてひとりの神」(ヨハネ3:1~12)
 最初に、まず祈ります。
父なる神さま。この1週間のお守りと導きを感謝します。しかし、何と無為と怠り、無気力のうちに歩んだ1週間であったことでしょう。そして、何と、言葉と思いと行いによって、多くの罪を犯し続けた1週間であったことでしょう。あなたは、すべてをご存知です。危険な、危機のときがありました。なすべきことを先延ばしして、週末を迎え、今に至っていることを、告白します。すべての人に、神さま、あなたは、平等な時間を与えてくださっています。飲食したり、新聞を読んだり、テレビを見たり、色々な時間を日々、私たちは過ごしますが、それぞれの人が、あなたから使命を受けて、なすべき仕事や家事や家庭生活また、社会生活を送るように時間を託されています。
どうか、本日をまことの悔い改めの始めの日として、み霊によって新しい生活へと、み言葉によって送り出してください。主キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
 
さて、皆さん、本日は、三位一体主日であります。私たちは、受難節を過ごし、主の十字架の死の記念の後、復活祭を祝い、それから、主と共なる40日を過ごして、主のご昇天を祝い、そして先週は、主の約束されていた聖霊降臨の出来事を、思い起こし、そして、本日、三位一体主日を守っています。これらの教会暦の流れは、自然の順序に従い、当然のようにも思われます。
この日は、私たちがどのような神を信じているかを、改めて問い直す大切な日曜日です。さて、大学時代から使っている岩波書店の古くなった広辞苑を開いて、「三位一体」とは、どう出ているか調べてみました。それには、まず、一つ目として、「キリスト教で、創造主としての父なる神と、贖罪者キリストとして世に現われた子なる神と信仰経験に顕示された聖霊なる神とが、唯一なる神の三つの位格(ペルソナ)として現われるとする説で、この三つに上下の差別はない」、とありました。
二つ目には、「三つの要素が互いに結びついていて、本質においては一つであること、三者が協力して一体となること」、という説明が出ていました。なんだか、分かったようで分かりにくい教理であり、用語であります。
かつて、私が司法試験の勉強をしていた頃、その仲間たちは、司法試験の勉強になくてはならない三位一体として、条文、判例、そして、基本書とよく言っていました。また、ある説明では、水は通常、液体だが、沸騰すると蒸気・気体となり、氷点下では、氷、固体になるのと同様で本質は同じであると、三位一体の神の説明として言われるのをどこかで聞いた覚えがあります。
  いずれにしても、キリスト教の神は、三位一体の神であり、私たちの毎週の礼拝は、「父と子と聖霊のみ名によって」と始まり、最後も、「父と子と聖霊のみ名によって」と終えているのであります。
 前置きが長くなりましたが、本日の福音の個所、ヨハネ福音書3:1~12をしばらくご一緒に考えてみたいと思います。この部分が、三位一体主日の本日になぜ選ばれているのでしょうか。これも、聞いたことに過ぎないのですが、マルチン・ルターも、ここがなぜ、この日の日課として与えられているのか、よく分からなかったとのことでした。しかし、本日の日課は、イザヤ書も、ローマの信徒への手紙も、ヨハネ福音書も、共通していることは、霊について語っていると思われることです。そして、本日の主日の祈りも「み霊によってすべては新しくされます」とあります。
本日の福音をもう一度思い起こしてみましょう。ニコデモという人がいて、ユダヤ人の議員であって、彼はある夜、主イエスのもとに、訪ねて来て言います。ラビ、神が共にいてくださるのでなければ、あなたがしているようなしるしどもは、だれもできません、と。すると、主イエスは、よくよくあなたに語るが、人はだれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない、と言われます。「新しく」というのは、「上から」すなわち、天から、神からとも訳せますし、「再び」、「もう一度」とも訳せる言葉です。それに対して、ニコデモは答えます。年をとった者がどうして、新しく生まれさせられることが出来ましょうか、と。
その当時ですから、年取った者とは、60歳くらいから80歳位の者であり、ニコデモもそうだったのかもしれません。ニコデモは、もう一度、母の胎の中へと入って、生まれさせられることなどできましょうか、と問うのです。主は、あなたは、イスラエルの教師でありながら、それらのことどもを理解しないのか。風、あるいは霊とも訳せるのですが、それは、欲するところに吹き、彼の声を、あるいはそれの音を聞くが、それがどこから、来てどこへ行くのか、だれもしらない。霊もそうである。肉から生まれたものは、肉であり、霊から生まれたものは霊であると言われ、前後しますが、よくよく、あなたに語っておく、だれでも、水と霊によって生まれさせられなければ、神の国に入ることはできないと、主は言われます。
水と霊によって生まれさせられるとは、父と子と聖霊のみ名による私たちの受けた、あるいは、受ける洗礼のことではないでしょうか。主は、ニコデモに向かって、よくよくあなたに言っておくが、私たちは知っていることをしゃべっているし、私たちは見たことを証しているのにあなた方は私たちのその証し、すなわち、イエスに関する超人間的な証しをあなた方は受け入れない。私が地上のことをしゃべっても、あなた方は理解しないのなら、私が、天的なことども、すなわち、神に属する存在や事柄を語ったとしても、どうしてあなた方は信じるであろうか、とニコデモに迫っています。
私たちの洗礼は、生涯に一度限りのものですが、私たちは、主イエスご自身も受けた洗礼によって、罪に死に、埋葬されて、新たに神に向かって生きる者とされているのであります。私たちは、このときのニコデモ、あるいは、ニコデモたちと違って、水と霊によって、新たに生まれさせられて、永遠の命に与るものとされているのであります。
罪とは、人間的な、あるいは神的な、義からのあらゆる乖離を言います。私たちは、その罪に、キリストの十字架とともに、死んで、新しく生きるものとされているのであります。この三位一体主日に、私たちの受けた、あるいは求道者にとっては、これから受けるであろう洗礼を思い起こし、主イエスによって与えられた新しい命を、み霊を受けながら、生涯を通して歩みたいものであります。
私たちは、主イエスの十字架と復活によって、既に義人とされており、かつ、同時に、罪人でもあることを、洗礼を絶えず想起することによって、日々、確認し、十戒のよき行いに励む者とされていきましょう。祈ります。

 私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。 
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2009/06/07(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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