津田沼教会 牧師のメッセージ
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「十字架、復活、そして昇天」(使徒言行録1:1~11)
使徒言行録1:1-11、2009・05・24、昇天主日(典礼色―-白―)
エフェソの信徒への手紙1:1-15-23、ルカ24:44-53

使徒言行録1:1~11
 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。

 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊による洗礼を授けられるからである。」
 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終えると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」




説教「十字架、復活、そして昇天」(使徒言行録1:1~11)

本日は、昇天主日であります。私たちは、毎週のように、使徒信条を説教の後に唱えますが、そこで、私たちは毎週、主イエスが、ポンティオ・ピラトのもとで、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人の内よりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、と信仰を告白しているのであります。このような信仰は、理性では信じることが出来ず、私たちは、ただ信仰の目を開かれて、初めて、この信仰告白を信じることが、できるのであります。
先週も、礼拝に、若い御夫妻が礼拝に出席され、自分たちの子供、息子さんが高校になる、それで、いろいろと心配な年頃になってきたので、超越的なキリスト教のような考え方を息子さんに知ってほしいと考え、御主人のほうは、昔、宣教師さんから英語などを学んだことがあり、教会で何とかしていただけないでしょうかと相談され、まだ、本人の意向を聞かずに今日は来たのでと、新来者カードにも住所などはお書きにならないで帰っていかれました。是非、英語で聖書を読む会などに通われることを勧めた次第でありました。
さて、本日は、第一朗読の使徒言行録1:1-11を取り上げてしばらく、皆さんとご一緒に、主のご昇天の意味について考えてみたいと思います。使徒言行録は、ご存知の通り、ルカ福音書の記者ルカの第二巻として、ティオフィロさまに献呈するものとして書かれたものであります。ルカの本日の福音の記事と、使徒言行録の記事とではかなり、違った感想を持つと思います。しかし、全体としてみれば、大きな食い違いはないのであります。例えば、ルカでは、使徒たちは、主ご昇天の後、大喜びで帰ってきて、神殿で絶えず、神をほめたたえていたとありますが、本日の使徒言行録では、弟子たちは、置いてきぼりにされたように、天をみつめ、主とのお別れを絶望的なものとして悲しんでいるかのようであります。
しかし、エルサレムから、この後、この都で主イエスによって約束された聖霊降臨の出来事が起こり、弟子たちは次第に、世界に、地の果て、ローマ帝国の都、ローマまで、キリストの福音と神の国を宣べ伝えて行き、使徒言行録の終りは、パウロが、絶えず、訪ねて来る人々に、主イエスの救いを宣べ伝えていたという場面で終わっているのであります。
さて、本日の記事をもう一度思い起こしてみましょう。主イエスは、40日に渡って弟子たちの前に現われ、このエルサレムに約束されたものを受けるまで、とどまっているようにと指示され、その時から、「あなたがたは約束されたもの・力を受け、エルサレムからユダヤ、サマリア、そして地の果て、ローマにまでも復活の証人になる」と言われて、天に上げられるのであります。
弟子たちは、立ち尽くして、主が雲に乗って彼らから離れ、取り上げられて行くのを、呆然とみつめていたのであります。彼らは、まだ約束されていた聖霊降臨の出来事を、信じえず、人間的な目で、この師である主イエスとの最後のお別れに絶望的にならざるを得なかったのであります。
けれども、その時、二人の輝く衣を着た人、天使がそばに立ち、力付けるのであります。「あなたがたは、なぜ、呆然として雲に乗ってあげられていく主をみつめているのか。あの方は、あなた方が見たのと同じ有様で、手段で、また、あなた方のところに現われる」と再臨の主の約束をするのであります。私たちも、この世の中で、一人見放され、孤独に襲われて、もう希望は絶えたと感じさせられるような、辛い体験に時として出会います。この時の弟子たちも同じだったでしょう。
しかし、私たちは、主より、聖霊を既に受けて、主によって常に見守られている存在なのであります。主は、いつの日にか終りの日に、また、同じように、雲に乗ってお出でになられることを約束なさっています。それがいつであるかは、主もご存知でなく、父なる神のみが知っておられると主は言われました。
私たちもまた、本日の弟子たちのように、聖霊を受けて、復活の証人になるべく、地の果てにまで、遣わされているものであります。十字架すなわち主の苦しみと復活と、そして昇天という本日の出来事によって、私たちは、常に場所を超えて、また、時間を超えて、主が父の右に座して、聖霊を送られ、どこにいても、どんな苦境の中に立たされていても、共にいて下さることが、可能になったのであります。
使徒言行録は、聖霊行伝というふうにも言われます。その聖霊に満たされての、復活の主の証人としての働きは、今も私たちを通して続けられているのであります。天に上げられた独り子によって、私たちも永遠に生きることができる者とされているのであります。
祈りましょう。
 天の父なる神さま。
 私たちは、しばしば、神さまからも見放されて、一人ぼっちだと悩まされ、孤独と寂しさに襲われることがあります。しかし、主は、天に挙げられ、そこから、父と共に、聖霊を絶えず送っておられます。
そして、私たちが地の果てにまでも、神の国、また、復活の主の証人として、この世界に遣わされていることを、危機のときにこそ思い起こさせ、2000年前の弟子たちと同じように、困難と迫害にもめげず、あなたの証を日々、なせる範囲でなしていくものとさせてください。主イエスの言葉からはなれず、また、主の霊の導くままに、歩むものとなさせてください。次週の初の聖霊降臨の出来事を喜びをもって、共に迎え、祝うことができますように。キリストによって祈ります。



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2009/05/24(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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