津田沼教会 牧師のメッセージ
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「あなた方は、私の友」(ヨハネ15:11~17)
ヨハネ15:11-17、2009・05・17、復活後第5主日(典礼色―白―)
使徒言行録11:19-30、ヨハネの手紙一4:1-12

ヨハネによる福音書15:11~17
「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」



説教「あなた方は、私の友」(ヨハネ15:11-17)

 いよいよ、喜ばしい復活節も、本日で復活後第5主日を迎え、次週は、昇天主日となり、再来週は聖霊降臨祭、ペンテコステへと移動していきます。復活後の主日としては、本日がいよいよ終わりとも言えるのであります。そして、今週は、先週に引き続いて、ヨハネ15章の11節から17節が、与えられています。ここも、いわゆる、十字架の死がすぐ後に迫っている告別説教と言われている言葉の中にあります。
 主イエスは、先週の個所で、私はまことのぶどうの木、そして、父なる神は、園丁である。私につながっている、とどまっている枝は、父が剪定をして、ますます豊かに実を結ぶが、そうでない木は、投げ捨てられ、枯れて焼かれてしまうと厳しい言葉を残されました。そして、互いに愛し合いなさいと、命じられ、それが、豊かに実を結ぶことだと、教えられたのでありますが、本日の記事もそれに続いている主イエスの言葉であります。
 主は、先週の個所、み言葉を話したのは、あなた方の喜びが私においてあり、私の喜びがあなた方においてあふれるためであると、まず、言われます。私たちが互いに愛し合うならば、主イエスは喜びで満たされ、私たちも喜びでまっとうされることになると言われるのであります。そして、重ね重ね、私は、あなた方に掟、戒律を与える、すなわち、互いに愛し合いなさいと言われるのであります。
 そして、あなた方を、私は友どもと語ると言われます。なぜならば、僕、奴隷は、その主人が何をしようとしているのか知らず、ただ、命じられるままにするほかないが、私は、あなた方を友というふうに語る。なぜなら、私は、私を遣わした父から聞いたことをすべて話したからであると言われます。
 日本のキリスト教グループには、沢山なグループがありますが、その中の一つに「イエスの友会」というのがあります。私は、今、54歳ですが、27歳のころに洗礼を受けて、その前後に、賀川豊彦先生の「死線を超えて」の中巻「太陽を射る者」という自伝小説を読んだのであります。神学生新見栄一が、神戸のスラム街へ入って行く所から、中巻は始まっていました。その本から、大きな影響を受けて、教会につながり、洗礼を受けたのでありますが、その弟子たちや同労者たちと一緒になって作ったグループが「イエスの友会」というグループであります。その名の所以が本日の主イエスの言葉であります。私は、このところ、毎年、夏休みを頂いて、二泊三日の夏期聖修会に出席させていただいています。
 今年は、奇しくも、プロテスタント日本宣教150年記念の年であり、また、ルーテル教会にとっては、ルーテル神学校創設100年の節目に当たると共に、賀川青年が、神戸にその当時あったスラム街に入って100年目、献身100年記念に当たるのであります。
さて、そのイエスの友会というのには、五綱領があって、敬虔、純潔、平和、奉仕、労働を目標として定めて、教会に下座奉仕をするというのであります。
しかし、本日、イエスが弟子たちを友と語られるのは、弟子たちが主から友と呼ばれるのにふさわしかったからではありません。ヨハネ福音書では、友を表す言葉も、愛を表す言葉も、同じことを意味するものとして、用いられています。ですから、主イエスは、弟子たちを、そして、私たちを「私の愛する者たち」と語りかけて下さるのであります。
 そして、主は、あなた方が、自分から私を選んだのではなく、私があなた方を選んだと
言われます。私たちは、自分で決断して洗礼を受けた、あるいは、自分から教会を求め、教会へ通いはじめたと思いがちですが、主イエスの方が先に私たちを選んで下さっているのです。
一人一人を大事な、大事な者たちとして、選んで下さっているのであります。そして、もちろん、それは、世の中の人全部を招かれておられるのでありますが、残念ながら受け入れて従順に従う人と、そうでない人とに分かれるのであります。
 主は、何人も、自分の命をその友どものために、捨てる以上に大きな愛を持っていないと言われます。自分の命を捨てると訳されていますが、これは、後で出て来る、あなた方を「任命した」という字と同じで、自分の命をその友のために「置く」という言葉であります。
 本日のこの個所の主の言葉を文字どおり実践して、自分の命を捨てて、友どものために、犠牲になったというような出来事も少なからず起こりました。三浦綾子さんの「塩狩峠」の主人公などはその例でありましょう。しかし、愛する者たちのために、その罪の贖いとして、真にご自身の命を「置かれた」方は、主イエスの他にはおられないのであります。なぜならば、主は、神の独り子であられたのに、この世界にくだり、父なる神が、その独 
り子をも与えるほどにこの世界を愛されたところのそのお方であるからであります。
 主は、私たちが出て行って、実を豊かに成らせ、実を残すようにと、私たちを任命なさいました。そして、言われました。私は、あなた方に掟を与える、すなわち、お互いに愛するように、と。
私たちは、家庭で、また、この津田沼教会で互いに愛し合うことによって、実を豊かに結ぶことになるのであります。そして、そのことを見て、周りの人々が、主イエスの愛を知るようになるのであります。身近なところでこそ、私たちは、愛し合い、赦しあうようにと、主によって、召された者たちであります。主は、十字架につけられ、ご復活させられる前に、最後の遺言として、これらの言葉を残されました。私たちは、み言葉から離れやすく、しばしば、罪に陥る弱いものでありますが、御自分の命をも置き、差し出された主に従って、何よりも愛と信頼に満ちた生活を築いていきたいものであります。祈りましょう。
 天の父なる神さま。
 復活後の第5主日を迎え、主ご復活の喜びを私たちは知らされています。しかし、私たちは、罪深く、弱さと汚れに満ちております。どうか、日々をあなたのみ言葉によって、歩ませてください。怠りや、弱さを、あなたが解決へと導いてください。今年も、五月の半ばを迎え、一年のたつのの速やかさを覚えさせられます。どうか、あなたが先頭に立って、私たちを家庭への伝道へと、また、地域や社会への宣教へと押し出してください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

 
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2009/05/17(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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